技術と農村社会

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新開地における社会形成と農協

著者名: 友杉孝
シリーズ名: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
出版年: 1983年
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目次

はじめに・・・・・・・・・・2
Ⅰ 深川の景観―道路網を中心に・・・・・・・・・・4
Ⅱ 未墾地開拓と社会形成・・・・・・・・・・10
Ⅲ 定住社会の秩序と地主支配・・・・・・・・・・16
 1.地主・小作関係・・・・・・・・・・17
 2.地主の2類型とその事業・・・・・・・・・・20
Ⅳ 農業協同組合の二重拘束性・・・・・・・・・・25
 注・・・・・・・・・・32


はじめに

 前年度の報告1)において,筆者は佐賀平坦部農村を事例にして土地と貨弊の象徴作用について論じた。すなわち土地も貨幣も,たんなる経済的有用性であるにとどまらず,多義的象徴作用によって人と人の間を関係づけ,規定する。土地を媒介として,血縁関係は家(イエ)として制度化され,地縁関係は村(ムラ)として制度化される。個人を超える家の名誉のために,人々は自からの快楽を最少にして,歯をくいしばって頑張った。家の名誉は土地所有面積の拡大で示される。したがって土地を増やすために刻苦勉励した。
 家を構成単位とする村は,内部的には各家の競争の場である。他の家に負けまい,と人々は背伸びしても努めねばならない。いうまでもなく,村は一致とか和を何よりも重んじる。実際,全会一致は重要な原則であると同時に現実でもある。しかし一致と和の裏には激しい競争が潜在する。これを顕在化させないために,是非とも慣行が遵守されねばならない。ところが村は対外的関係において,その様相を一変させる。村は対外的には競争と敵対関係を露わにする。他の村に劣ることを認めることは,村の人々にとって耐えがたい恥辱である。水争い,境界争いは血を流す争いである。他村との争いは,経済的利害を契機としていても,この経済的利害を超えて,村の名誉に関わることである。したがって,血を流すに価することである。
 他村との顕在的な争いは,村の内部における一致団結を高揚させる。すなわち他村との対抗と緊張は,とかく形骸化しやすい村の内部における一致と和の原則を活性化させるのである。このように家にとっても村にとっても,土地は存在そのものを象徴する。土地は単なる経済財である以上に,聖なる意味を担なった富である。土地は富であることによって,村の中では最重要な支払い手段として使用される。すなわち支払い手段としてのみ機能する限定的貨幣である。
 富としての土地が限定的貨幣として家と村の存在そのものを象徴するに対して,貨幣は村の外部からの力として土地に働きかけ,土地の象徴作用を更新する。この外部的な力は,古くは遊行する旅僧にとりつく霊力であったが,近世では町に居住する有徳商人が所有する貨幣に形態を変える。貨幣は人々の存在を外部的世界との関係性において象徴する。すなわち,人々の存在を象徴する聖なるものとして貨幣もまた富の一形態である。土地が限定的な目的のみに使用される限定的貨幣として機能するに対して,外部的な力を象徴する貨幣の使用は,特定の目的に限定されない。一般的貨幣である。しかも限定的な貨幣としての土地の機能は局地的であるに対して,一般的貨幣の機能は,本来的に,局地性を越える。土地が局地内的であるに対して,貨幣は局地間で機能する。しかしながら両者ともに富であるから,両者の間では交換が可能である。土地の商品化である。
 家と村の経済は土地と貨弊によって秩序づけられる。この結果,村と町,村と村が経済的に統合される。日本的市場経済の展開である。西欧における場合と異なって,日本の場合は.市場経済の展開において土地所有の果した役割は大きかった。土地が限定的貨幣として機能していたことが,市場経済の自主的展開の一つの重要な前提条件であったからである。しかしながら市場経済における土地所有のこの大きな比重は,日本の市場経済に封建社会に類似な印象を与えることにもなった。
 佐賀平坦部農村社会についてみれば佐賀段階と通称される日本最高の土地生産性の実現と,同時に高率小作料で特徴づけられる地主制の確立である。佐賀段階も地主制も共に,土地と貨幣の相互交渉によって形成される社会関係が,上述の特徴をもつ日本的な市場経済化の過程で具体的に実現された2形態であった。
 本稿は北海道深川市農村社会を対象にして議論を進める2)。この土地は石狩川に沿った沖積地で,水田稲作が卓越する。北海道の米作中心地である。しかしこれまでの調査地と異なって,この地域の開発は明治以降である。土地の水田化の始まりは明治から大正にかけてである。すなわちこの地域での社会形成は,日本における明治以降の市場経済の展開と同時に行なわれた。すでに確立している社会に対して,外部から市場経済の影響が及ぶというのではない。したがって社会を構成する人と人の間を媒介するものは,第一義的には貨幣である。貨幣は人と人の直接的な人格的な結びつきを疎外する。土地は副次的なものでしかない。市場経済が展開する中で,個別農家は貨幣を媒介として相互に関係する。ところが,ばらばらな個別農家は市場経済の変動に対応することは困難である。どうしても個別農家が結集して,一つの農民組織が形成される必要がある。地域社会を形成する過程で農業協同組合が必然化する。
 農業協同組合は,個別農家の地縁関係である農事実行組合を組織基盤にはするが,その運営は経済合理性の追求を大きな柱とする。農業協同組合は経済合理性の追求によって加入個別農家の経済的利益の増大を図る。たしかに農業協同組合にとって,経済合理性の追求は必要条件である。しかしながら経済合理性の追求それ自体が目的化してしまうと,結果として,奇妙な倒錯が起る可能性も生じる。所得が増加し,物質的には豊かになるが,農業協同組合が規定するシステムに即して人々の生活も営まれざるをえない。貨幣物神を裏側に潜ませた経済合理性のとりことなる。一種の管理社会の実現である。一般的に,現代社会の管理社会化が論議されるが,農業協同組合は日本型管理社会のモデルになる可能性をもつといってよいであろう。
 このように,本稿は未墾地における社会形成を,農業協同組合に収斂させて記述を進めるが,この問題は,現在の第三世界における農業問題を考察するためにも,参照するに価する一事例と考えられよう。というのは,農村社会に対する市場経済の影響力が激増する過程で生ずる深刻な社会問題に対処するために,第三世界の国々で,農業協同組合の育成が熱心に説かれているからである。ところが多くの社会において,農業協同組合は必ずしも期待どおりに展開しているとはいえない。以前,筆者が調査したタイの農業協同組合の場合,組合員の全農家に対する比率は10%にみたない3)。
 このような第三世界における農業協同組合の実情に対して,日本の農業協同組合の農家組織率はほぼ100%であるし,多くの注目すべき成果もあげている。どうして,日本の農業協同組合はこのような成功を実現できたか,と改めて問題をたててみる必要があるであろう。今後,第三世界における農業発展は,たんなる農業技術の近代化によっては達成できない。農業技術と並行して,農民組織の形成が必然的に要求されよう。この場合,日本の農業協同組合は一つの参照さるべき経験として検討されねばならない。
 個別の農家の農業経営,農業協同組合の経営,深川農業史などについては,同じシリーズの他の報告書を参照していただければありがたい。本稿は,社会組織論の視点から現代社会を共時的に記述する一つの試みである。昭和56年11月と57年6月の2回にわたる現地調査で得たデータを基礎に本稿を執筆した。調査の際,地元の方々から受けた多大の援助とお世話に対して深く感謝の意を表したい。

Ⅰ 深川の景観――道路網を中心に

 深川市とその周辺の農村は,北海道第1の穀倉石狩平野の北端に位置する。北空知である。深川市街の南部を大河石狩川が東から西にゆったりと蛇行しながら流れ,深川市の西部に続く妹背牛[もせうし]の西を雨龍[うりゅう]川が,北から南に流下する。この両河川と北部および東部の山地で囲まれた土地は沖積地で,平坦であり,わずかに西南に向けて傾斜する。この平野の中を直線状に走る函館本線の車窓から眺めれば、どこまでもずっと山際まで成長した稲の穂先が連なる水田地域である。
 この水田地域を少し歩いてみよう。景観は多くのことを語ってくれるからである。ずっと見渡す限り山際まで,青々とした稲の波が続く水田。景観そのものは本州と変わらないが,さすが深川では規模は大きい。ゆったりと大きさが感じられる。この大きな水田景観の中を,舗装した立派な道路が,縦横にまるで定規で引いたように直角に交差して,網目状のパターンをつくる。このように整然とした道路網は本州の水田景観にはみられない。農家の所在も縦と横の道路番号で表示される。縦何番横何番という具合で,間違えようのない正確な位置表示である。
 深川市を中心とする道路網の表示は以下のごとくである4)。深川市街を東西に走る深川本通り(道道深川・追分線)を基線として,これより南と北にそれぞれ300間ごとに道路を設定している。南は石狩川にいたるから「川」,北は山に向うから「山」の名を,それぞれ道路番号に付す。道路番号は基線より遠ざかるに従って順次増える。したがって,基線より南に等間隔で川1号,川2号,川3号という具合に,東西に走る道路が平行し,同じく北も山1号,山2号線という順で道路が平行する。これら東西方向の道路に対して,南北方向に走る道路は西隣り妹背牛町との境界線を3号線とし,この道路より東に向って300間ごとに道路が設定され,深川市街まで12号線が平行して走る。この結果,農家と圃場の位置は,たとえば5号線山3号線というように,直交する2本の道路名で正確に指示される。深川市に統合された一已[いちやん]町,納内[おさむない]町,音江[おとえ]町における道路網とそれの名称のつけ方も,原理的にはまったく深川市と同じである。
 このような機械的に正確ともいえる道路網の設定は,たしかに大規模な平坦な土地の存在によって可能となるが,それだけではない。本州の農村社会とは異なる,いくつかの社会的条件もある。第1に,個別農家の土地に対する利害関係から,相対的に自由な政治権力が存在していること。一元的な道路網は強力な政治権力に対応する。第2に道路によって地理的に関係づけられるはずの2地点間の社会関係が末だ濃密には成立していないこと。すなわち未開地での道路建設である。すでに成立している社会を順次連絡するように道路を建設すれば,けっして碁盤目状にはならない。まず道路網が建設され,その後,道路にひきつけられて社会形成が展開される。事実,深川では道路建設が社会発展に大きく貢献した。第3に,形式合理性が支配的であること。300間間隔で東西と南北の道路が交差して,300間四方の土地が分割され秩序づけられている眺めは,幾何学的な美しささえ人々に感じさせる。この幾何学的な地割は形式性そのものである。道路網は最大限に形式性を発揮することで,個別農家の多様な土地条件に基づく実質的利害関係を調停する。道路網の形式性が実現している機能は,市場経済における制度の形式性と人々の実質的な生活充足との関係に対応するであろう。
 幾何学的に配置された道路に沿って農家がぽつぽつと点在する。はとんどの農家は道路に沿ってあり,しかも集中しない。隣家との距離はさまざまだが,100メートル以上離れていることは珍しくない。本州の農村で一般にみられる塊村ではない。広くとった農家の屋敷地の背後は耕地で,300間向うの道路まで水田が続く。すなわち,各農家の地理的独立性は高い。
 広い土地に点在していて,農家の地理的独立性は高いが,その家屋のつくり方はどこでもよく似ている。家屋の外観は,写真でみる西洋の家屋に類似していて,従来の日本の農家とはまったく異なる。家屋の色彩も豊かで,屋根は赤とか緑のトタンである。玄関を上るとすぐに客間で,ここに石油ストーブが暖かく燃え,応接セット,カラーテレビ,電話などが備えつけられる。かって本州から移住してきた人々が,それぞれの郷里の家屋のつくり方にならって建てたとされる純日本風家屋ではない。この土地に適した,そして西洋風のハイカラな印象を与える日本化した西洋建築である。
 経済的に豊かな,ある家の応接間はこうである。立派なレース刺繍で飾った皮張り応接セットの上に,豪華なシャンデリアがさがり,ローズウッドのサイドボードには西洋人形と日本人形が飾られる。大きなカラーテレビの上には赤,白,黄,ピンクなどの華やかな造花と,青々とした本物のオモトが飾られている。マガジンラックには新聞がたてかけられ,昨日のプロ野球の結果を報じている。石油ストーブで十分に暖かいので,窓外は一面雪であるが,客には冷蔵庫で冷やされたオレンジ・ジュースがもてなされる。この客間の内部装飾は,日本化した西洋建築の一典型であり,深川農村社会を担う人々の一つの価値観を物語る。かかってくる電話の会話はきれいな標準語であり,本州の農村で聞かれるような地方方言ではない。現在,電話している人は入植から3代目であるという。
 再び屋外に出てみよう。さきにみた縦横に直交する道路網で区切られた正方形の中の水田は,39年からの圃場整備事業で完全に整備された。それまでの不整形の零細な地片は,すべて1ヘクタールを単位にして団地化された。ある農家ではかって83筆に分かれていた耕地が8筆にまとめられた。入植当初,荒地を少しずつ土地条件と家族労力に制限されながら開墾したから,一片の耕地は非常に零細であった。圃場整備事業の結果,大型農業機械導入の基盤は整備され,農家の労働力が著しく軽減される契機となった。水田景観を観察しながら歩いていても,農作業をしている人に出会うことは少ない。大型農業機械を数日間使えば農作業は終ってしまう。農作業終了後,働き手は他所に稼ぎに行き,農業機械の支払いだけが残される。
 道路網と同じく水路網も整備されている。石狩川を水源とする大正用水が用水路の基線である。大正用水の幹線水路は山1号線に平行して東から西に走り,この幹線水路から深川の水田の養い水が供給される。コンクリートで3面が固められていて,送水にともなう水のロスは最少である。かつて乱流していた小河川はすべて改修され,現在,排水路として利用される。大鳳[おおほ]川5),芽生[めむ]川などである。この水路網の維持管理はすべて深川土地改良区が一元的に行なう。土地改良区の権限は大きい。末端の支線水路については,地元の農事実行組合に維持管理が委託されている。
 このように,水田景観は大変形式合理化され,この結果,深川全体として農業生産は機械によって効率的に経営することができるようになった。以前乱流して人々を悩ました河川も,改修されて排水路としてのみ使用される。開発により生活は効率的には便利になったが,一方で失われたものもある。たとえば,子供達の遊び場が失くなった。改修前の河川は子供達の遊び場であったからである。ウグイ釣りの回想を,少し長いが,失われたものを知るために,引用しておこう6)。

 「僕は,午後5時頃になると,僕の家と隣の家の境の,幅90センチ位の小川に行き,目の細かいたも網を用いて.小さいどじょうを掬った。約3,40分かけて,ようやく20匹位の,3,4センチ程度のどじょうを掬い上げるのに成功した。それは今夜かける流し針の餌にするのである。
 やがて夕暮迫る頃,僕は,約10本の流し針の竿を担いで,田のあぜ伝いに大鳳川の提防に向つた。1メートルに2,30センチの旗竿位の大きさの棒の先を尖らし,それに約1メートルの長さの丈夫な糸を縛り,その先端に釣りをする時よりもやや大きい釣針をつける。これに先程取って来た生きているどじょうをつけるのである。このどじょうを殺してはならない。それを一本ずつ川縁の流れのよいウグイの泳ぐ道を見定めて差してゆく。もうすぐに薄暗くなり人影は見当らない。
 僕は深い眠りについていたが,例の流し針のことが頭にこびりついているから,午前4時過ぎになると必ず目が覚めた。早速服を着て靴を履き小走りに川に向う。東の空は大分赤味を帯び,もう朝日が昇る寸前である。提防付近には誰も来ていない。
 僕は一番川上に掛けてある流し針の場所を探した。夕べ差したままの状態で異状がない。何か棒の先が揺れているようである。僕は提防から静かに川縁に下り,足先に気を付けながら棒の先をしっかり握り,力一杯引き抜いた。と手ごたえがある。糸の先が水中を前後に動く。仲々上がらない。静かに持ち上げると,やがて真白い水しぶきを上げて,大きなウグイがかかってきた。即座に提防の中腹の草原に棒ごと放り上げておいて,跳ねている魚を両の手でしっかり押えつけた。大きい。30センチはある。」

 ウグイ釣りだけではない。子供達はタモ網をもって遊び,岸辺の穴でフナをすくい,浅瀬で鳥貝を見つけ,時に川がにに指をはさまれることもあった。秋には鮭が遡上して来たとさえ推定されているのである7)。
 圃場整備事業の実施によって,子供の遊び場が失われたと同様に,多くの古い水田景観は消えた。しかし時折,地下から古い景観を復原する手がかりが現れる。たとえば木株である。ある農家の玄関先に周囲が1メートル以上もあろう大きな古い木株があった。先頃,水田の中からもって来たという。水田化以前の原生林の名残りである。こんな大きな樹木からなる原生林を,よくも現在の状態にまで開発したものだ,という印象を強く与える。しかも石狩川がしばしば氾濫し,さらに冬季には気温が零下20度を越えて下がるという悪条件である。
 苛酷な自然を人間化して耕地とするに要した先人の労苦が偲ばれる。怖るべき自然の暴力に対するために,人々は経済的に努めねばならなかっただけでなく,超自然的な力にも心の拠りどころを求めた。この家の座敷には,大きな立派な仏壇が設けられていた。先代は石川県出身で,熱心な真宗の門徒である。門徒の人々は熱心にお講を共同でもった。水田景観を限るはるかな山々の山裾に,小さな円形のこんもりした感じの小山が望まれる。丸山である。ここには山頂にいたる道に沿って88体の石仏が安置され,霊地として崇められている。明治40年に開かれた。深川には四国出身者が多く,新四国88カ所の巡礼地とされた8)。現在は行楽地であり,リクリエーションの場として親しまれている。
 この深川の水田を歩いて気のつくことの一つは,人々の生活に必要な農業以外の諸活動を示すものがあまりに見当らないことである。景観は農業生産に専一していて,行政,商業,娯楽,等々の活動は,すべて深川市街に集中しているのである。農家の菩提寺も農村部には立地せず,ほとんど深川市街か近くの町にある。すなわち農村社会の自足性が乏しく,深川市街がもつ諸活動の補完があって初めて人々の生活が成立つといえよう。事実,深川市街には市役所など各種行政機関,教育文化施設,スポーツ施設,宗教組織,医療機関が集中している。これら諸活動を可能にする鉄道・道路の中心地にもなっている。
 鉄道では,深川駅が函館本線の特急停車駅であるほかに,留萠本線と深名線がここから分岐する。鉄道交通の要衝である。道路では,国道12号線が深川市街の石狩川対岸音江を通過し,深川を札幌,旭川に結びつける。音江から国道223号線が石狩川を深川橋で渡り,市街で深川本通りと合し,さらに北上して留萌に向う。道路交通でも深川は地域社会の中心である。
 市街の道路網は農村と原理的には同じで,東西の道路と南北の道路を直交させて成立つ。すなわち,農村の11号線を1丁目とし,ここから60間ごとに南北方向の道路を東に向って9丁目まで設定する。東西方向の道路は36間ごとに設けられ,蓬来通り,仲町通り,本町通り,森元町通り,花園町通り,片町通りと呼ばれる9)。深川市街は一元的プランに従って発展したのである。幾何学的に設定された道路網により,深川市街が農村を統合すると同様に,鉄道と道路は深川を旭川あるいは札幌に結びつけ,さらに東京と関係づける。
 農村の若い人々は,深川に遊びに出るだけでなく,どの農家も自動車を所有する現代では,旭川にすぐに出掛ける。車で30分である。交通網は社会統合のシンボルとしても機能する。図式的に農村から国家をみれば,下から上へと農村社会,深川市街,札幌(旭川)の3段階の統合レベルがある。しかし上から下へと働く力のベクトルが,この社会統合を設定維持してきた。
 事実,深川市街の形成は交通路の建設を契機とした。まず石狩川の舟運である。明治前期は石狩川舟運が,上川盆地に通じる最重要な交通手段であり,当時は深川市街の対岸音江が舟着場であった10)。ついで道路が建設される。深川本通りは神居古潭[かむいこたん](旭川)から雨龍(滝川)にいたる道路の一部として,明治22年に開通した。上川道路と同じく囚人労働により建設された。これら道路は札幌を基点とする北海道奥地開発の計画を実現するためである。
 石狩川が増水するたびに水がきた原野に道路が建設され,以後,入植開墾の基線となった11)。さらに鉄道は,明治31年,函館本線が開通した12)。現代の自動車時代にいたるまで,交通の主役を果すことになる。このように中央からの交通手段が建設されることで,深川市街地が形成されるが,市街地そのものも,菊亭侯爵農場の所有地の払下げである。一已屯田兵村とメム百戸入植地の中間の湿地帯が市街地として貸下げられて以後,明治35年に住民へ所有権の移転が行なわれた13)。すなわち深川市街地は明治の華族農場の一部が転用されて形成された。道路網と同じく,市街地そのものにも中央から地方へのベクトルが強く作用していた。

Ⅱ 未墾地開拓と社会形成

 さきにみた幾何学的な道路網は,大規模な未開地を計画的に開墾したことを示唆する。かつて深川はどのような土地であったか。明治18年に深川を植民の目的で調査した技師はつぎのように報告する14)。
 「石狩,雨龍両川の沿岸は,ヤチダモ,クルミ,カマカダモの樹林で,エンジュもまた混り,一面にテテッペ,ヨブスマ草,アザミ,レイン,ヲホバイラクサ,オニシモツケソウ,ヨシ,スゲ,ミズバショウなどが繁茂,石狩及びメム川の水は,降雨による濁水をのぞき飲用に適し,なかんずくメム川の水深は清く,さけが多く産卵,土人はこれを捕って食料にあてている。」しかし巴[ともえ]から北の大鳳川にいたる1,600ヘクタールの土地は湿地で,アイヌも近よらなかった。巴にキャンプを張った調査団の調査員は,つぎつぎと病で倒れた。大鳳川の水が飲用に不適のためとされた15)。
 開拓は上川道路に沿う条件のよい音江から始まり16),ついで一已,音江の屯田兵村が明治25年に開かれた。屯田兵は教練を受けながら,家族が開墾に当った。明治35年に屯田村は解散し,屯田兵は後備役に編入された。この際,土地,家屋は屯田兵の個人所有となった17)。屯田兵村の設立と並んで華族農場が設定される。菊亭農場である。菊亭侯爵はメム18),妹背牛に5,756ヘクタールの土地の貸下げを受けた。明治25年,菊亭は東武と開墾契約を結び,東武を責任者として新十津川出身者百戸をメムに入植させることにした。メム百戸団体は明治26年に入植する。現在の深川の始まりである19)。
 新十津川の人々は奈良県十津川の出身である。奈良県十津川村は紀伊山脈の中に位置し,急流十津川の急斜面の谷にへばりついているような印象を与える土地に立地する。明治22年の豪雨により,各地で地すべりを起し,壊滅的な打撃を人々に与えた。この大災害の結果,多くの人がハワイに移住した。被害があまりに大きかったので,同じ土地で生活を再建することは困難として,新天地を外国に求めたのである。さらに当時,北海道開拓が政策的に推進されていて,被害者救済策をも兼ねて,600戸の人々が新天地を北海道に求めることになった。この北海道移住の積極的推進者が東武であった。樺戸[かばと]郡トック(新十津川村)である。当時は一面の原生林で,用を足して後,自分の家を探すことすら大変であったといわれる。伐採,火入れを行ない,苦労の末やっとのことで原生林を耕地に変えた。しかし,土地条件は一様でなく,また耕地拡大を望む人々もいた。これらの人々の中から前述のメム百戸団体が構成された20)。
 このように,奈良県十津川村の人々の新十津川,さらには深川への移住に際して,指導者東武の果した役割は非常に大きい。社会の創設期において,深川を社会一般に結びつける社会統合の力を体現した存在である。かつての遊行する行者に類似する。東武は明治2年,十津川郷永井で生れ,郷学文武館で学ぶ。文武館卒業後,東京に出て東京法学院(中央大学)を明治23年に卒業。21歳の時に十津川大災害の報に接し,いったん帰郷。生活を再建するために北海道移住を唱導し,官庁にも働きかける。結局,わずか21歳の青年が600戸の家族(2,600余人)を動かして,北海道移住に踏み切らせた。北海道移住を無謀とする非難に対して,東武は『時事新報』にこう反論している21)。
 凡そ事を成すに躊躇逡巡しては何事も決行し得るものではない。これら羅災者が仮の住いを建て土砂を取除いて耕す様なことよりも,早々に小雪舞う時候と言えども新天地を求めて移住する者は,之の位の大事を決行するには鬼神も之を避くの勇気を以て蹶起せねばならぬ。
 東武は鬼神にも優る力を発揮して,人々を指導したのである。明治23年卒業後,すぐに札幌製糖会社に就職し,支配人となるが,菊亭侯爵に請われて農場支配人となり,明治26年深川入植に力をつくした。明治31年,政界進出することになる。石狩川氾濫による被害を救済するために道庁に働きかけ,遊説したことが契機となる。明治34年道会議員選挙に当選し,2期6年間道会議員をつとめてから,明治41年衆議院議員に当選。39歳であった。以来,10回議員に当選。昭和2年から4年まで,田中義一内閣では農林政務次官をつとめた22)。すなわち,東武は深川農村社会を創設する際にはどうしても必要な指導者であり,その後,深川を道庁と結びつける役割を果し,最後は深川の人々にとっては雲の上の如き存在となった。
 新十津川から深川への移住は100戸が予定されたが,実際に移住に調印した人は77名である23)。さらに,28年までに移住を完了した農家は76戸にすぎなかった。萩の根が強く張っていて手鍬での開墾がなかなか進まなかったためである24)。そこで新たに加賀団体の移住を勧めることになった。明治30年,東武は石川県能美郡に行き,開拓移住農家を募集した。前年の29年,この地域も豪雨,山くずれで大災害を経験し,多くの人々が他地方に移住したといわれる。東武の募集で深川に移住し,た人々が加賀団体といわれ,48戸である。巴地区に入植した。
 さきにみたように巴地区は湿地で,笹,ヨシが密生し,さらに奥地ではヤチダモ,アカダモ,ハンの木などが繁茂する。熊が横行する土地である。大正4,5年でも熊は時折出没した。熊が出たとしらせがあれば,村田銃とかこん棒,手斧をもってかけつけた。熊が家屋の方に向ってきたので,まさかりを振りあげて物隠にひそむこともあった25)。あまりの悪条件のため高台の音江あるいは山地の多度志[たどし]に転出する人もあった26)。しかし明治35年,地域の小河川あるいは湿地の水を利用して水田造成が始まり,人々の定着志向は強まった。大正以後,人口は急増することになる。他所からの移住である27)。
 これら屯田兵,団体入植のほかに,いうまでもなく,縁故入植者も数多くあった。加賀団体以後,時代が下れば殆んどが縁故入植である。すでに入植している近親者とか同郷の人を頼って入植する。縁故入植者の出身地は一様でないが,比較的に四国からの入植者が多い。丸山の新四国霊場が建立されるほどである。特別の災害がなくても,すでに過密状態にあった出身地の村落社会を後にして入植した。北海道は新天地であった。
 しかし入植した人々の定着性はそれほど高くない。新開地であるから洪水など自然災害の機会は多く,入植した土地が泥炭地という悪条件の場合もあった。他所に良い土地があると伝聞したり,あるいは働き口があればすぐに移転してしまう。本州の農村と異なり,土地が人々を引きつけ定着させる力を発揮することは少なかった。貨幣収入の多少がより人々の関心事である。いったん定着した後でも,土地を売って他所に転出することは珍しくない。新天地は,熊が出没する土地を開墾するという苦難に満ちた土地であると同時に,機会を求めて移動することも可能であるという不確定な土地であった。
 いうまでもなく,機会は貨幣によってイメージされた。創設当初から貨幣による意味作用が卓越した土地である。人々は貨幣を所有することで,個人としての自立性を高めることが出来た。さきにみた水田景観においても,個別農家の地理的自立性が高かった。貨幣を媒介として,人々は日本全体を一つの単位とする社会に統合される。この統合を可能にするものとして,さきにみた幾何学的交通網が機能する。
 しかし,人々の社会統合は国家社会レベルだけではない。本州農村では部落が個別農家と国家社会を媒介する。人々にとって直接的な社会は部落である。深川では,この部落的な地縁関係は本州ほど強くない。むしろ弱いといってよいであろう。部落への帰属意識が強迫観念に近いまで強まっていることはない。個別農家の自立性を前提として,地縁関係すなわち地区社会が形成されている。いわゆる村八分に類することはまったく考えられない。このような地縁関係として,まず行政上の単位である部落あるいは農事実行組合がある。この両者は同一の組織で,行政上の場合が部落で,農民組織の場合が農事実行組合である。現在,深川農業協同組合管轄下に27組合がある。部落は戸数にしたがって下部に班をつくり,冠婚葬祭のように隣り近所の手助けが必要な場合の相互扶助の単位となる。
 部落には上意下達のための行政上の下部組織という役割が強い。行政が個別農家を直接に把握することは物理的に困難である。したがって部落長は行政の連絡員として機能し,時には部落の事項,例えば,道路補修の要望を役所に連絡することも行なう。この事務的組織ともいえる部落が活気を帯びる時は選挙である。市議会選挙の際,にわかに部落は忙しくなる。票読みである。当選に必要な票数を確保することで真剣である。事務所でお茶を一杯といって中は酒であったりする。縁故者の票も当てにされる。夜中,自動車が他所から来ると,人々は皆神経をとぎすます。しかし選挙が終れば,以前のいわば事務的な部落に戻ってしまう。
 行政的に設定された地縁組織である部落についで,人々を地縁的に結びつけるものに宗教上の集まりがある。とくに真宗のお講は熱心に行なわれてきた。さきにみた加賀団体はすべて真宗東本願寺の門徒である。開拓当初の苦難にもかかわらず,というより,むしろ苦難によって一層信仰を強固にした。信仰が常に人々の心の支えであった。すでに明治22年,深川に澄心寺が建立されていたので,加賀団体の人はすべてこの寺の壇家になった。明治36年,郷里の村で開いていた村お講を深川でも開くために,本山に御消息願を提出し,認められて御信書(お文)を受けることが出来た。以後,現在に至るまで本山で認められたお講が続いているのである28)。
 お講の開かれる情景を『巴開拓誌』をもとに記述してみよう。お講は毎月10日に開かれる。宿は輪番であり,当番の家では仏壇の仏具を磨き,当日を待つ。当日は早朝からお伽(食事)の用意で大変である。手伝いの主婦たちが御飯を炊きおにぎりをつくる。豆腐のおつゆを用意する。漬物は各自持寄りである。金時豆を煮たお茶菓子も用意。11時頃から孫を連れた年寄り,嫁を連れた姑など,皆がつぎつぎと集まる。70~80人にもなる。嫁をもらうと必ず姑がこの嫁を寺とかお講に連れてゆき紹介するしきたりであった。このしきたりはお嫁さんの化粧おとし,あるいは姑さんの姑名のりと言われている。お寺さんが到着すると,皆でお伽きにかかる。このお伽は当時の最高の食事であり,とても楽しいものであった29)。
 午後1時から儀礼が始まる。部屋の正面に3尺四方の高さ2尺位の台があり,この上に大きな座ぶとんが置かれる。お寺さんはここでお勤をする。最初,正信偈を唱和する。お寺さんがまず唱え,ついで全員が声をそろえて合唱する。お文はお寺さんだけが読み,皆には門跡の印を披露する。お勤めは30分ほどである。この後15分ほど休み,お茶を頂く。続いてお寺さんの法話が30分ほどある。法話の最後は必ず南無阿弥陀仏で結ばれる。法話が終ると,世話人がざるを持ってお賽銭を集めて,お寺さんに渡す30)。
 法話の要旨はいくつかの定型がある。たとえば「この世のことより,あの世のことを想え」,「安心して死ねるように」,「先祖さまの御恩に報いよ」,「仏様の言うことを聞き,安心して仏の力にすがればよい」などである。法話の上手なお寺さんは巧みに世間の出来事をたとえ話として使い,仏の道を説いた。
 このお講は,地縁的な集まりであるが,部落とは重ならない。部落を越えて人々は集まる。同一部落でも宗派が異なれば,当然,参加しない。地縁関係が宗教を媒介して強固な仲間集団を形成させた。この結果,婚姻の場合,相手は真宗でなければならない,と言われるまでになった。大変良い縁組といわれる場合でも,宗派がちがうことで結婚に至らなかった例もある。人と人との間を媒介する土地の機能が弱いから,同一部落よりも同一宗派が重視されたのである。同一宗教に属することで,人々は互いに直接的に人格的に関係することができた。一つの共同体である。共同体であればこの共同体の内と外を区別せねばならない。他者排除である。この場合,地理的または行政上の境界は共同体の境界ではない。宗派が境界となる。しかし歩いて集まることが可能であるという条件がおおまかな地理的拡がりを規定し,結果として地縁的社会関係を形成する。さきにみたお講はこの共同体の祭りである。日頃の生活の辛苦はお伽を共同で頂くことで忘れられ,お寺さんの有難い話は人々に生きることの究極的意味を教える。人々の生活は再び活気を帯びる。お講が終り,「夕日が西に沈む頃,人々は口々にお念仏を唱えながら束の間の幸にひたりつつ家路についた31)」。家路の終るところで,再び日頃の生活が始まるのである。
 巴地区以外にはお講はない。しかし真宗以外の宗派に属する人々にも,家の壇那寺は当然ある。北陸から移住してきた人が多いこともあって,真宗がもっとも盛んであるようだが,天理教も熱心に布教している。天理教は十津川百戸団体が深川に捧持した。四国出身者に縁の深い真言宗,浄土宗,曹洞宗,日蓮宗の寺院がある。本州から移住する際に宗派まで一緒に捧持してきたのである。さらにキリスト教の教会もある。エマヌエル・ルーテル教会と聖公会である。聖公会は明治31年にすでに教会を建てた。新開地であったからである。新しさを意味した32)。
 加賀団体のお講は,郷里での村講が北海道に移植されて,巴地区を中心とする地区社会創設の一つの強い力となった。何もないところがら生成したのではなく,郷里での慣習の継承である33)。しかし巴地区には加賀以外からの移住民も少なくない。真宗以外の宗派の檀家である。5部落からなる巴地区の白山神社は地区の人すべてを包みこむ地域の神社である。名称が示すごとく加賀白山の白山比咩[ひめ]を祭神とする。明治30年,すなわち加賀団体が故郷を後に北海道に移住する際に,石川県鶴来町本宮白山比咩神社の御分霊を捧持してきた。大正中頃,約3坪の神殿になり,さらに昭和3年妹背牛神社の旧社殿の払下げを受けて一層立派にした。昭和30年,土台をコンクリートにして,現在の建物とした34)。このような白山神社の社殿の変遷は巴地区の経済力の発展とおおまかに対応するであろう。神社境内には,白山神社のほかに地神宮がまつられる。わずかに土盛りした上に石を重ねてセメントで取付けたものである。土地神であり,災害を防ぐとされる35)。すなわち,郷里の白山比嘩神社の御分霊と土地神の組合せで豊作と災害予防がはかられる。白山神社が主で地神宮が従であることにも注目しておきたい。
 白山神社で春秋年2回の例祭が行なわれる。4月5日の豊年講春祭りと9月3日,4日の豊年講秋祭りである34)。地神宮の祭りも同時である37)。豊年祈願と豊作感謝の祭りであるが,同時に楽しみの場でもある。秋祭りには旅廻りの芸人が来て,芝居を見せた。舞台作りは地区でする。4間と3間の大きさで,花道もつけた。人々はむしろに座って楽しんだ。夜7時から11時頃まであり,人情話,旅ものなどが好まれた。この芝居の幟りとポスターも地区で作製した。田舎相撲も見られた。地区が頭取りに一括した謝礼を払い,人々は無料で見物して楽しんだ。地区の小学校の児童も祭りの時に相撲をとり,賞としてノートなどをもらった。食物とかおもちゃを売る露店も4,5軒あって賑わった37)。日頃,倹約そのもののつつましい生活であるから,祭りでの支出は楽しく,人々を解放的気分にさせた。
 祭りは巴地区全体の行事であるが,青年会館は神社境内にあった。小学校を卒業してから満25歳まで青年団の一員である。青年団は毎月1回29日夜7時から定例会を開いた。1カ月間の行事予定,特定テーマに関する討論会,雑誌『青年』『青年カード』の輪読などをした。独自に『双葉』という機関誌を年1回発行もした。薄暗いランプやろうそくの灯りの下で原稿切りや騰写刷りをした。青年団の大切な仕事に暁励会がある。毎月1回,午前4時,白山神社に集合して境内の草刈りと掃除をした。青年団は陸上競技の練習もした。毎年6月の深川町青年団の陸上競技大会,6月から7月の北空知青年陸上大会に出場するためである。短,中,長距離,砲丸,円盤など各自が好む種目を練習した。素人演芸会も主催した。農村の家族慰安が目的である。詩吟,手品,歌謡曲,浪曲,落語,民謡,漫談,舞踊,寸劇,合唱などまことに盛沢山である。さらに青年団は産業部まで設け,農業生産について調査した。たとえば,肥料試験,水稲の品種比較成績,水稲生産費などテーマは多くあった39)。このようなまことに多彩な青年団の活動が,少年を地区の一人前の青年に仕立てた。青年団の活動によって青年は地区の生活に必要な知識を体得するだけでなく,仲間との信頼関係を深めることが出来た。新開地においては,他人と信頼関係をもっことは,何をするにしても決定的に重要なことである。さらに,セックスなど青年期に特徴的な個人的な悩みなどの相談相手がいる場でもあった。
 これまで巴地区の地域社会形成についてみてきたが,他地区でも事情はほぼ似ている。どの地区にも神社,お祭り,青年団があって,それぞれの地区社会をつくりだしている。この地区社会では,人々のつきあいは相互的であった。すなわち貸し借りのバランスが常にとれていた。たとえば農作業の忙しい時には手間替えをした。手間替えの労力がバランスされない時には,不足分を時価の労賃で支払うとか,酒1本をもって借りを返した。巴地区では苗代の共同管理をすでに昭和16年頃から始めている。田植えの手助けもした。生産だけではない。ご馳走をつくった時には近くの人々に配った。近くの人が立寄って雑談してゆくこともしばしばである。入植当初は縁故者しか信頼できる人がいなかったにもかかわらず,このようにして人々の社会関係は地縁的に成立した。しかし地区という地域社会は本州の村とは相違している。本州の村がもっていた人々に慣行を強制する力あるいは雰囲気は深川にはない。地区社会はやはり新天地であり自由であった。巴地区でも人々の転出入は相当に激しかった。人々は自分個人の利害関係だけで自由に移動したからである。後述の地主・小作関係が小作農の定住を妨げたことはいうまでもないが,先祖の土地という意識も,本来的になかった。

Ⅲ 定住社会の秩序と地主支配

 さきにみた巴地区での人々の生活は,相互性によって規定される社会関係を基盤にしている。しかし人々が取結ぶ社会関係は相互性だけではない。支配・従属関係もある。土地所有に基づく地主・小作関係である。相互性を平等ないわば横の関係とすれば,支配・従属関係は縦の関係である。地区社会の秩序はこれら縦と横の2社会関係の併存によって規定された。2社会関係が対抗的か相互補完的かは状況次第であり,動態的である。縦の関係である地主・小作関係を中心に記述を進めよう。
1.地主・小作関係
 深川における地主・小作関係の形成は,入植当初にまでさかのぼる。屯田兵の場合は,政府から与えられた土地が自作地となったが,団体入植の場合はそうではない。団体入植者は大農場主の小作人となったのである40)。メム百戸団体の場合,菊亭農場の小作人として入植した。東武は支配人である。しかしメム百戸団体の場合,小作条件は他に比較して大変良かった。すなわち1戸当り3万坪(10町)を6年以内に開墾すれば,20%(2町)を報酬田(報恩地)として東武に引継ぐほかは,残りのすべての開墾地は,入植者の所有地と定められた。小作料の初年度徴収はなく,2年後以降は一般の小作料の3分の1とした。反当り30~80銭である41)。入植者は鋸,斧,鎌,鍬で原生林に挑んだ。冬の間に巨木を伐り倒し,雪解けとともに笹と乾した枝を組んで火入れした。木の根,笹の根は唐鍬,島田鍬で一鍬一鍬掘り起した。大変な苦労である。立木の少ない土地では4頭曳きの開墾法が案出された。こうして明治32年に入植者は自作農になった42)。
 加賀団体はムメ百戸団体とはまったく相違した。開墾した土地が入植者の所有地とはならなかったからである。メム百戸団体よりも悪条件の悪い湿地が多かったから開拓の辛苦もより大変であったろう。しかし開拓地は自作地にはならなかった。メム百戸団体と同じく,東武が入植の募集をしていて,どうして加賀団体はまったく意に反することを甘受せねばならなかったか,不明である。ただ雨龍菊亭農場小作法(明治28年)にはつぎの規定がある43)。
 1.小作人給与地及見積金額
 小作人給与地ハ明治廿五年及ビ廿六年ニ募集セル百戸之部分ハ壱戸区画地三万坪ヲ給シ該壱戸ヨリ地主ニ対シ二町歩ノ開墾義務ヲ負ワシメ成功年限之後ハ卸地積ハ小作人ニ給与ス,爾後廿七年及廿八年ニ募集センモノハ一切土地ノ給与ヲナサズ
 上記の規定によれば加賀団体の開墾地が自作地にならなかったことはむしろ当然であろう。しかしこの規定がつくられた事情は不明である。メム百戸団体は十津川からの移住であり,朝廷と親しい関係をもったとされる郷士の系譜につらなる。菊亭侯爵は藤原一族で,公卿三条実美の甥である44)。これに対して,加賀団体は普通の農民であった。この相違が上記の規定に反映しているという考えもありうるが,推測でしかないであろう。ともあれ,加賀団体は開墾後も菊亭農場の小作人として止まらざるをえなかった。
 この菊亭農場の一部は,明治38年に札幌の五十嵐佐市に譲渡された。6号線以西,巴1,2地区である。さらに大正4年,この土地は札幌の太田清蔵(貴族院議員)に譲渡された。その後昭和15年,北海道拓殖銀行の管理になった45)。農場は一つの物件にすぎず,たんなる貨幣表示物でしかない。道路6号線以東も大正4年,菊亭農場から東京の赤羽秦雄に譲渡された。巴3,4,5地区である46)。全地区は6号線を境いにして太田農場と赤羽農場から構成された。全巴地区の農家70~80戸のうち自作農は殆んどなく,自作農は6号線の西と東にそれぞれわずか1戸ずつあるのみであった47)。
 大正から昭和初期赤羽秦雄は巴以外にも妹背牛(旧深川村所属)に2カ所農場を所有していた。巴地区を加えて深川に3農場を所有していたから,巴の名称もこれによる。すなわち3農場が互いに三つどもえとなって競争して発展することを期待して,赤羽秦雄が巴という地名を与えた48)。赤羽秦雄は東京在住であるが,年1回,自分の農場を車で視察することを楽しみにしていた。その時は小作人は道路の雑草を刈って出向えたといわれる49)。赤羽農場の事務所は3号本通りに所在し,支配人(後の深川土地改良区理事長)が管理した50)。農場主は崇めたてまつられる存在であったに対して,支配人は憎まれ役でもあった。
 支配人の管理は大変に厳しく,田に草があるのを見付けられると,小作人はやめさせられるほどであった。この小作人を助けるために他の小作人が代って除草し,支配人に歎願せねばならなかった。地主には小作人に水田を貸してやっているという意識が強く,不適当な小作人をいつでも他の小作希望者に代えることができたためである。小作料は反当り最高8斗5升,低くて5斗であった。反収は3~4俵であるから,小作料は収量の40~50%にもなる51)。規定の小作料は,収穫後,小作人が町にある地主の倉庫にまで運んだ。倉庫は満杯であった。しかし小作人には食べる米は殆んど残らない。生活必需品を購入せねばならなかったからである。災害の場合には減免があったが,支配人は厳しく水田を視て,減免交渉はいつも難航した。したがって小作人は常に金に困っていた。信用組合にも加入できなかった。やむをえない場合は近所の小金をもつ人から借りたが,高利であった。信用組合から借金して小作農に貸す人もいた。利ざやを稼ぐのである。小作農にとって,米も金もきわめて貴重であった。収穫米はまず神棚にあげ,ろうそくを灯し,拝んでから,家中の者が頂いた。金も同様で,米の代金を神棚にあげて拝んだ。正月には家中の金を集めて神棚にあげて拝んだ。
 このような地主支配に対して,巴地区では早くから小作農の自作化への運動が行なわれていた。すでに昭和10年頃,巴2地区在住の浦滝津衛は農地解放と自作農創設を提唱していた。昭和15年,太田農場が北海道拓殖銀行の管理に入ることを契機にして,農地解放運動は積極化した。自作農創設は国家政策でもあった。昭和17年,北海道拓殖銀行札幌本店にて銀行側(地主)代表,小作農代表に加えて深川町長も同席し,農地売買の取決めが成立した。2カ年据置,25年の均等償還で,元利総額5町歩で平均7千円である。当時,地価は5町で1万円ほどであったから,小作農側にとって有利な条件であった52)。関係小作農27名,水田114町であった53)。この太田農場解放の運動に連携して,赤羽農場の解放運動も進められた。しかし地主にまったく解放の意志がなかったため,赤羽農場の解放は戦後の農地改革まで待たねばならなかった54)。
 加賀団体の入植地が自作地にならなかった結果巴地区では殆んどの農家は小作農であったが,他の地区でも小作農は多かった。不在大地主の大農場,深川町その他近隣の町に住む中小地主の農場が点在する中に自作地があった。米穀商その他商業で小金を貯めた人々にとって,土地購入は適当な投資の対象であった。土地それ自身に関心があったのではなく,もっぱら貨幣増殖の手段としてのみ意味ずけられた。昭和10年,深川町の耕地約2千町のうち,不在地主の所有地は1,430町で,全体の約70%を越えた55)。在村地主の所有地を加えれば,地主所有地の比率はさらに高まる。これらの農場についても農地解放の運動は進められた。昭和15,16年にわたって報恩地区の森農場の小作農は自作農になった。小作農121戸,水田237町,畑35.8町であった。昭和17年には新生地区の宇佐美農場が解放された。小作農40戸,水田169.1町,畑2.8町である。共栄,日の出地区にまたがる田下農場も解放された。小作農47戸,水田111.1町であった56)。さきの太田農場の場合も含めると,4大農場の解放の結果は,解放小作農家170戸,水田670町の成果である。当時,既存の自作農は約100戸であったことに比較して,戦前の大農場解放の成果は大きかった57)。政府の自作農創設政策を背景にしての解放運動であるが,戦後の農地改革を実質的に準備した運動であった。さらにこの運動が戦後の農民組織形成に大きな力を与えてゆくことになる。
 しかし戦前の自作農創設事業で,大部分の地主所有地が解放されたのではけっしてない。赤羽農場についてはさきにみた。東農場も解放されなかった。さらに町在住の中小不在地主の所有地,在村地主の土地なども未解放のまま残った。これら残存した地主所有地は戦後の農地改革でほぼ全部が解放されて自作地となる。赤羽農場の小作農41戸,水田189町,畑5町,東農場の小作農18戸,水田49町,畑6町である。町在住の不在中小地主と在村地主の所有地も多数あり,両者合計して約500町と推定されている。これら中小地主は大農場と異なって,それぞれ固有の事情があり,解放は難航したが,結局,殆んど解放された。この戦後の農地解放の結果,全耕地の96%は自作地となったのである58)。貨幣増殖の手段として一義的に意味づけられた土地から農家の存在自体を多義的に象徴しうる土地へと変換した。自作農になるということは,たんに小作料を支払わずに済むというだけではない。農村社会において一定の社会的評価とそれに適しい待遇を受けることでもある。以後,解放された旧小作農は農民組織においても大切な役割を果すことになる。農業協同組合を支える力にもなった。

2.地主の2類型とその事業
 全耕地の70%を越える土地が不在地主の所有であったことは,地区社会での社会形成にも大きな影響を与えた。第1に,農家の移動が激しい。耕地が地主所有であれば,自作地に比較して,その土地に対する定着性は低い。より条件のよい土地あるいは働き口があれば,容易に移動してしまう。しかも巴地区にみられるように,全農家に占める小作農の比率は大変高かった。したがって本州と異なり,土地が人々の社会関係の媒介になる程度は低い。いうまでもなく先祖伝来という観念は形成されにくい。第2に,大農場主は赤羽,太田にみられるように札幌,東京に在住する。当該農場が立地する地区社会には殆んど関心を持たない。支配人を置いて農場の収益を上げることだけが関心事である。第3に,在村地主と自作農が地区社会でもつ発言力は大きい。在村地主の場合,地主が所有地の一部分を耕作するとか,老齢,病弱のために耕地を小作に出すとかである。不在地主は貨幣増殖の手段としてのみ土地に意味を与えるが,在村地主と自作農は,土地を生存の根拠そのものにしている。
 これらの諸条件の結果,地区社会は在村地主と自作農,すなわち在地の土地所有者によって秩序づけられる。小作農がかりに異議を申立てれば,たちまち一喝されてしまうのである。地主支配の地区社会ではあるが,地主は自分の発言力に適しい責務を果さねばならなかった。「あの人の言うことだから間違いない」とか「あの人の言うことには従っていく」,「○○さんの言うことは聞かねばならない」といわれた。当然,地主は地区を代表して各種農民組織さらには町議員になった。近所の人が水田の中で仕事をしている時,地主は羽織り袴にカンカン帽を冠っそ,口ひげを生やして議会に出かけた。同一地区社会内での小作農と地主の相異は,たんに経済的貧富だけではない。地区社会の存在を象徴する名誉も地主が所有したのである。当然,地主は時には自己の利益を度外視して,名誉のために行動せねばならなかった。いうまでもなく地区社会全体の問題,たとえば道路についてはもとより,小作農の個人的問題まで面倒をみねばならなかった。地主を中心とする地区社会の秩序形成である。
 地主が地区社会で圧倒的に大きな力を所有していたことは,新たな農業上の革新を実施する場合においても,当然,地主が主導することになる。土功組合(後の土地改良区)と産業組合(後の農業協同組合)についてみておこう。前者では不在大地主が,後者では在村小地主・自作農が中心的存在であった。
 まず土功組合からみよう。明治26年,メム百戸団体が深川に入植してから,原生林が焼払われ耕地は拡大されてきた。最初はなたね,粟,黍をつくり,2,3年してから小豆,大豆,えん麦,菜豆,玉蜀黍を作付けした。地力が肥えている間は小豆の収量は反当6俵程度あったが,無肥料で土地を連用するために地味は低下して,小豆は反収2俵にまで落ちてしまう59)。この結果,小作農は小作料の支払いも困難となり,夜逃げ同然に他に転出する人もでてきた60)。
 畑作がこのように困難な状況に陥りつつある一方で,稲作は試験的に好成績を示しつつあった。すなわち,明治29年一已屯田兵が試験的に稲作に成功し,巴,さらには音江に稲作が普及し始めた。深川でも10号山3線の桜川を水源として稲作が始められた61)。畑地にしにくい湿地,水源が容易に利用できる土地がまず水田化し始めたのである。このような畑作の不振と稲作の有望性は,当然,地主を刺激することになる。経済問題だけでなく,米は畑作物より貴重であるという考え方もあったであろう。しかし稲作が本格化するためには,水の確保が必要条件である。灌漑用水の問題である。こうして地主の主導のもとで灌漑施設の建設が唱かれた。『深川土功組合要覧』はつぎのように述べる62)。
 抑モ此ノ地ハ明治22年,故三條実美公爵等同志ヲ糾合シテ開拓ヲ始メ,大樹老木ヲ伐採整理シテ力強キ労作ニ依リ拓地殖民ノ業大ニ進展シ.爾来掠奪農業継続ノ結果,地力ノ減耗漸ク繁キヲ加フルニ及ビ,明治29年一己屯田兵伊藤兼太郎ノ米作試験ニ因リ,水稲耕作ノ端緒ヲ啓キ,明治34年1月菊亭侯爵ノ主張ニヨリ,土地改良ヲ目的トシタル水田開拓ノ議起リタルモ……
 すでに明治33年,東武,青木利一(菊亭農場支配人)など有志は,一已深川組合を設立していた。菊亭侯爵の呼びかけに応じて,明治34年20町以上の地主が会合し,土功組合の水田予定面積を5,000町として,測量を始めようと議論した。しかし工事費があまりに巨額になることから,事業は一時断念せざるをえなかった63)。
 明治39年,土功組合案が再び論じられることになる。当時,北海道全道を対象に灌漑の重要性が認識され始めていたことが背景にあった。深川では灌漑施設の設計を道庁に依頼し,実地測量を行なった。この結果を明治41年,10町以上の地主による神主会で議論し,明治42年深川土功組合が設立された。予定された灌漑面積は,一己6,000町,深川3,600町であり,当時としては日本一の規模の灌漑事業であった64)。
 工事は4年を要し,大正5年に完成した。施設は当時の北海道長官により大正用水と名づけられた65)。工事費約70万円の中,約4分の1は国庫補助であった66)。最初に計画されてから12年間が経過した大工事である。この灌漑施設完成の結果,深川農業は畑作から稲作にほぼ完全に変換した。農民の土地定着性は増大し,稲作に基盤をおく社会形成が進められることになった。入植者初代は開墾地を畑作とし移動性が強かったが,初代をつぐ2代目はずっと定着性を示すことになる。とくに自作農においてである。
 この大正用水事業の実現には,発端の菊亭侯爵の熱意,東武の推進力,さらに青木利一の組合理事としての実務処理の上での卓抜な貢献が称えられる。青木は東武に見込まれて明治32年菊亭農場の支配人となり,以後,自分自身も岩見沢に165町の土地払下げを受け地主になった。青木は,官庁の援助を具体的に取りつけると同時に事業実施を円滑に行なうために昼夜働いた67)。このように大土地所有者の主導により大正用水は実現した。地主も小作料を安定的に獲得するためには,何よりも灌漑施設が完成されねばならなかったからである。地主の私的利害の追求が農家全体の利益と一致した事例である。しかし,大正用水によって安定した稲作が可能となった後,地主と小作農の経済対立はより鮮明になっていく。
 土功組合が不在大地主の主導のもとに大正用水を完成したのに対して,産業組合は在村小地主,自作農を中心に設立され運営された。産業組合の端緒は誕生会に始まる。明治41年,誕生会は発足した。当時必要であった過燐酸肥料の共同購入,信用貸付,農業技術の向上,その他相互扶助を目的とした。この誕生会のメンバーは当初において,メンバーの誕生日を月1回の集会日とした68)。会則の中からいくつかを引用しておきたい69)。誕生会の理念が明確に表現されているからである。
 誕生会会則
 第2条 本会ハ本村内同志ヲ以テ組織シ会員相互誕生ヲ祝シ一家ノ基礎ヲ輩クナサン為二宮尊徳翁ノ遺法ヲ遵法シテ勤倹美風ヲ養シ福利ヲ増進スルヲ以テ目的トス
 第3条 本会ハ前条ノ目的ヲ達センガ為,貯蓄及ビ寄附金等ヲ以テ資金トナシ,
且ツ金融便利ヲ図リ生産的事業ノ発達ヲ期スル事
 第5条 本会会員ハ本村居住者ニシテ一家1戸主タルモノニ限ル事
 第8条 会員誕生日ニハ必ズ其ノ家ニ集合シ長寿ヲ祈ッテ互ニ有益ノ談話ヲナシ智識ノ交換ヲ図ル事。但シ費用ヲ要セザルヲ旨トス
 第9条 会員ハ総ニ於テ定メタル標準金ヲ貯蓄スルハ勿論子女教育資金,亦ハ婚嫁準備金造成スル為成可ク子女ノ名儀ヲ以テ特別貯金ヲ為サシムル事
 第10条 会員ハ前条ノ外,成可ク家族ノ貯金ヲ奨励センガ為,互ニ奢侈ヲ戒メ冠婚葬祭等ハ相応ノ分度ヲ守リ勤倹節約ヲナシ貯蓄シ実行ヲ期スルモノトス
 第11条 会員中不時ノ災厄ニ遭遇シ生計上非常ニ窮スルモノアル時ハ,役員会ニ於テ事実取調ベノ上,総会ノ決議ヲ以テ一致協力救護ニ尽力スルモノトス
 第19条 通常総会ハ毎年一月二之ヲ開キ貯金額ヲ定メ貯金ノ成績ヲ報告シ,且ツ必要ナル事項ヲ協定スルモノトス
 第20条 臨時必要ナル事項ハ会員中誕生会ヲ以テ協議スルコト
 第23条 会計報告ハ毎年一月通常総会ニ於テ之ヲナス
 第25条 本会会員ニシテ他ヘ転住等ノ為誕生日ニ参列出来ザルニ付退会申出タル時ハ役員会ヲ開キ相当ト認メタル上総会ノ決議ニ因リ,既納蓄積元金ヨリ生ジタル利益ハ現在額以内ヲ以テ額ヲ定メ,蓄積元金ト共ニ其ノ年ノ年度末ニ返戻スルモノナルモ決定額ニ対シ毛頭苦情申立ツル権利ナキモノトス
 第28条 本会ハ二宮尊徳翁,遺法ヲ遵法シ漸次報徳ノ事業ヲ実行スルノ端緒ニシテ各自ノ永安ヲ謀ルハ勿論,一村ノ美風ヲモ養成スル目的ヲ達センガ為,一致共同シテ常ニ左ノ事項ヲ京守スルモノトス
 1 教育勅語ヲ遵法スル事
 2 諸般ノ恩徳ニ報スルニ吾ガ徳行ヲ以テスルコト
 3 余財ヲ推譲シテ公益ヲ起シ善行ヲ立ツルコト
 4 勤倹ヲ旨トシ分度ヲ守り家政モ確立スルコト
 5 本会存続期間ハ最モ質素ヲ旨トスルコト
 6 納税ハ期日内二必ズ納入スルコト
 7 集会ノ時間ヲ堅ク守り過ラザルコト
 以上の会則から明らかなように,誕生会は報徳思想を,市場経済が展開しつつある農村社会において具体化して会則を規定した。会則はさきにみたお講あるいは青年団活動にみられた社会関係の共同体的性格,報恩思想などと多く重なり合う。勤倹を重視し,家計を健全にする考えも,市場経済の展開に対応する当然の農家の規範である。市場経済展開の過程で,不在地主は土地所有から地代の増収だけを目指した。大正用水も地代増収の一手段である。しかし在村地主と自作農は貨幣収入の増大だけを目指すことは出来なかった。現に在住している地区社会の共同体的性格にも頼らなければ生活が成りたちにくかったからである。小作農は誕生会を主導することはいうまでもなく,加入することすら困難であった。
 誕生会は10年間をさしあたっての期限として発足した。明治41年以来堅実に運営され,大正7年,産業組合として再発足した。明治以来,日本全体としても北海道においても産業期合運動が熱心に唱導され,産業組合の普及が政府の重要な農業政策であったことが背景としてある70)。報徳思想に基づく誕生会の10年間の経験が,産業組合という新しい制度を受入れる基盤になった。新しい産業組合の名称は誕生会信用購買組合とし,組合員は54名であった。誕生会からの組合員は25名,新規加入者29名である71)。
 大正11年に名称を菊水信用購買組合に変更した。本来,組合はメム全域を対象にすべきであるから,誕生会という名称につきまとう局地性を払拭して,組合組織の拡大を図ったのである72)。しかし,このことは誕生会にあった共同体的性格をいくぶんなりとも希薄にするものであり,組織の形式化を進める可能性をもった。大正12年,組合員は145名となった73)。大正15年,組合事務所を設置した。これまでは組合長中井哲太郎宅を事務所としていたのである74)。昭和8年,再び名称変更があり,新に深川信用購売販売利用組合となった75)。このような組合活動の拡大は,市場経済下での組合員の要望に応えるものであったが,他方において大きな問題をもかかえることになった。この問題はいわゆる欠損失金16,197円96銭として昭和12年,明るみに出た。損失金の大部分は会計上の不備な手続きと判明したが76)。共同体的な有無相通ずる態度と明確な形式的会計制度とのずれから生じた問題である。
 この深川信用購買販売利用組合は,戦争中を通じて深川農業の発展に役立っていたが,昭和19年,国家の政策により深川町農業会となる。従来からあった深川農会と合併した77)。まったくの天下り的合併である。深川農会は明治39年発足の農業技術の普及を図る組織で,農会法による全国的組織の深川支部である。初代会長は東武で,以後,深川町長が会長の任に当った。事務所は役所内にあった。発足当初は目立った活動をしていなかった。大正12年に農家全戸加入が法律で義務づけられた。政府の農業政策の末端組織としてである。さらに行政指導を強めるために,昭和6年,メムで25の農事実行組合を設定した。農事組合は部落に対応し,農事改良の制度を整えたのである78)。
Ⅳ 農業協同組合の二重拘束性

 戦後,昭和23年,農業会は農業協同組合に改組され,新たに戦後社会における農民組織として発足した。組合員数505名(組合員数500戸,家族組合員5名)である79)。農地改革で小作農は自作農になったから,農業協同組合は管轄地域の全農家を組合員とするのである。戦前の産業組合の活動が小作農を含みにくく,地縁組織としては不十分であったが,農業協同組合は機能組織であると同時に地縁組織でもある。すなわち,産業組合以上に農業協同組合は地域社会の中心となってゆく。農民の相互扶助と経済的利益の増大が基本理念として,戦後民主主義の雰囲気の中で熱っぽく唱かれた。農民の政治意識は高揚し,その政治主張は農民同盟(後の農政協議会)の政治運動として表明された80)。農業協同組合の政治部に相当する。毎年米価闘争を中心に活動し,組合員の連帯を強める機能をもつ。
 ここで農業協同組合の運営について少しみておこう。農業協同組合の最高決定機関は,全員出席を原則とする総会であるが,実際には総会で選ばれた理事が農業協同組合の運営に当る。理事は7名で,この中から組合長が選ばれる。これが執行部である。総会の前に理事候補者のリストを農政協議会が作成する。農政協議会から推せんされた場合,殆んどの人は推せんを受ける。農業協同組合青年部で活躍した人とか世話好きな人とか,ともあれ実績あると評価される人が選ばれる。組合長は農業協同組合を名実ともに代表すると同時に,深川地域社会の名士でもある。ほかにいくつもの役職,町あるいは道議員を兼ねる場合が多い。農業協同組合の役職が結果的に農村社会のひとつのエリートコースにもなる。かって,前組合長が道議会に立候補した時,青年部は総力あげて応援し当選させた。
 組合長を中心とする理事会が執行部として農業協同組合を運営するが,組合職員の専門知識による練達な業務遂行が組合の発展に大きく貢献する。農業協同組合の業務が複雑多岐にわたるだけに,専門知識は不可欠である。理事会で検討される案件に関する必要なデータも職員が整える。さらに組合運営に関しては青年部,婦人部などが果す役割も大きい。
 青年部は昭和26年に発足した。戦後の新しい農業の展開を若い力で担うという意気があった。農業を取囲む社会の変化に対応して,新しい農業生産の方向を熱心に模索した。運動会あるいは米価対策運動など体力を要する行事も青年部が実行部隊である。組合内部のコミュニケーションを図る年4回発行の『農協だより』も青年部の仕事である81)。
 婦人部は昭和31年に設立された。社会一般における女性の地位向上を反映してであるが,農業経営の中で主婦の占める大きな役割からも,婦人の組合活動は望まれた。婦人部は貯蓄推進と購買のとりまとめに独自の高い実績を果してきた。40年代には米価対策運動にも参加した。健康をまもるための健康診断をすすめることも,食生活の改善なども重要な活動である。さらに婦人部は,昭和38年に若妻会を設けた。育児,衛生,料理,手芸などの講習会を開き,また青年部とスポーツ交流を行なってきた82)。家族ぐるみ組合運動参加が内実化され,農業後継者への心くばりが周到に行なわれている。新たに新婚夫婦が誕生すると,『農協だより』はかならずこの夫婦のプロフィルを紹介している。祝福さるべき仲間としてである。
 農業協同組合の活動は,営農指導,信用,販売,購買,共済の諸事業で,農業生産を基点にして農家の全経済生活を包括する。これら事業活動について簡単にみておこう。
 まず営農指導である。営農指導では農業協同組合の強い指導力が発揮される。毎年の営農計画だけでなく,農業生産の画期となるような試みにも,農業協同組合は強い指導力を示した。たとえば圃場整備では,農業協同組合は深川土地改良区,深川市と連合して深川市メム地区農業構造改善促進期成会を結成して,事業の推進を積極的に図った。農業協同組合長は土地改良区理事長を兼ねておりこの期成会の会長であった。たんに事業の設計に関わるだけでなく,地元の細かな利害対立を調停して事業を円滑にすすめるために,各地ごとに1名の圃場整備推進専門委員を農業協同組合長が委嘱した。父祖以来の土地をまったく変えてしまうから,事業は難航したのである83)。しかしこの圃場整備事業が完成した結果,稲作の近代化の基盤は整った。農業の機械化は急速に展開し,稲作労働力は急激に軽減されることになる。農業協同組合は組合員の稲作を近代化させるために,政府の農業政策に全面的に協力して事業を推進した。
 農業協同組合が政府の農業政策を推進して組合員の営農指導する例は,転作奨励においても著しい。農業政策に対する協力というより,むしろ実施機関というべきであろう。米過剰に対する減反政策の一環である。すなわち昭和45年の第1次生産調整においては,39年より実施した圃場整備事業の未施工分を夏季に実施することと,農業従事者が事故などによって耕作困難な水田に限定して作付制限をした。274.8ヘクタールである。いうまでもなく組合指導によってこの決定が行なわれ,実行された84)。第2次生産調整は53年より始まる。組合管内の耕地面積1,704ヘクタールの15.1%が作付制限面積である。すでに圃場整備事業は完了していた。農業協同組合はこの政府から割当てられた作付制限面積を消化するために全力をあげた。1カ月を慎重な検討と組合員の理解をうるために使って,次のように作付制限を行なうことになった85)。
 作付制限の枠を地区農事実行組合を単位として割当てた。すなわち転作率が30%の農事組合6,同22%の農事組合2,同15.1%の農事組合12,転作しない農事組合6とした。このように農事組合別に作付制限の枠を規定し,転作率30%,22%の地区は転作しない地区から転作協力金を受取ることで,転作に伴う経済的不公平の是正を図った。転作30%の地区は10アール当り12,000円を全転作面積について受取り,同じく転作率22%の地区は10アール当り5,000円を受けとる。これら協力金は全額,非転作地区が耕地面積にしたがって負担した。転作率15.1%の地区農事組合は基準作付制限であり,転作協力金の支払い受取りには関与しない。これら転作に関する取決めは契約書として成文化され,転作協力金は農業協同組合の勘定によって行なわれると規定した。各地区の農事組合長はつぎの念書を作成し農業協同組合に提出した86)。
 念書
 当地区(農事組合)が契約する水田転作に係る契約書については,地区の構成員であります私達が共同の責任で履行いたしますことを確約し,協力金の組合員勘定からの引落し,および協力金の組合員勘定への入金について承諾いたします。
 昭和53年4月1日
 地区名 氏名 (印)
 深川市農業協同組合
 組合長理事 田島源一殿
 深川農業を画期的に変える圃場整備と転作奨励において,農業協同組合が指導的役割を果したことをみた。政府の農業政策の末端機構として有効に機能した。しかしいうまでもなく,農業協同組合は組合員の具体的要望をすくいあげながら新しい試みも行なってきている。たとえば共同給食施設である。田植時の女性労働を軽減する目的で,昭和48年に設立された。1日1,000食の能力をもつ。50年代に入り好評であった。田植労働が人力から機械に代るにつれて,給食の必要性が少なくなった。農閑期の施設の活用をもあわせて,農家の自家菜園のトマトを使ってジュースを作り始めた。昭和52年,組合婦人部の共同作業でビールびんでトマトジュース73,000本ほどつくった87)。
 生産資材の購買事業のひとつとして,給油所の設置がある。圃場整備の完成にともない,農業の機械化は急速に進行した。当然,石油消費量も激増することになる。石油の安定供給を目的として48年に給油所を設置した。同年の国際的石油危機に際して,安定供給に大きな役割を果すことになる88)。さらに,隣接2農協とも共同で石油基地を組合管轄内に建設した。農業協同組合が貯蔵タンクをもち,組合員のホームタンクに供給するシステムをつくりあげた。安く大量の石油を購入して,安定的に組合員に供給するためである89)。農業機械については,50年に農機具管理センターを建設し,組合員所有の農機具の修理,整備をも行なう態勢をつくった90)。
 組合の経済活動は農業生産だけではない。消費生活においても大きな役割を果たしている。消費材購買事業である。購買事業は農業生産に必要な諸資材,たとえば肥料,農機具,石油,農薬,飼料などのほかに,生活物質の購買も大きな比重を占める。56年度では,全購買量の4割弱は生活物資である91)。生活物資は生鮮食料品,食料品,日用雑貨,衣料品であり,毎日の生活に必要な商品は殆んどそろえられる。農協系統の大量仕入れで,商品のコスト減が図られる。これら生活物資はスーパー形式の組合店舗で購買される。売り場面積210坪で,ワンフロアーとしては深川地方で第1の広さである。さらに自動車による買物客の便を図って,店舗の向い側に288坪の駐車場をも設けてあり92),四通八達の道路網が店舗に直結する。組合員はもとより,深川地方の住民一般も利用している。組合員は買上げ金額に比例して割戻しを受け,自動的に婦人部の部員各自の預金に払い込まれる93)。
 以上にみた組合の生産,消費にわたる活動のほかに,共済事業も大きな役割を果す。不時の災難から組合員の生活を経済的にまもる制度である。長期として,生命,建更,子供保険があり,短期には自賠責,自動車,火災,傷害が設定される94)。営農指導,販売,購買などの経済活動を裏面から支える重要な活動である。農業生産を直接に保障する農作物保険と家蓄保険は,組合の関係機関である北空知農業共済組合が管掌する95)。したがって農家の経済生活の全てを組合は包括して指導しているといえよう。かつて不時の災難を避けるために神に祈ったが,現代の農業協同組合は,共済制度によって将来の不確実性を安全なものにしてしまう。将来の不確実性も,現在の貨幣による合理的計算で解消してしまうのである。
 農家の経済生活を包括的に取込んでしまう農業協同組合の経済活動は,コンピューターの使用で能率化される。農家の米その他の農産物代金は,農業協同組合の販売事業として記録され,個別農家の貯金勘定に記入される。購買未収短期貸付なども,すべて自動的に計算される。農家は必要な貨幣をいつでもオン・ラインで引出せる。銀行と同じである。組合全体の販売,購買事業もすべてコンピューターで記録され運営される。経済活動の合理化が進んだ96)。さらに農業協同組合のコンピューターは北空知広域農業圏を統轄する農業管理センターに連絡する97)。北空知全域の農業協同組合の経済活動がコンピューター化しているのである。経済情報が迅速に処理されると同時に,商品の購入などに関して規模の経済のもつ有利性を最大限に引出すためのシステムである。大商社に類似する。
 農業協同組合が組合員農家の経済活動のあらゆる面を包括的に組織し,コンピューターによって経済合理性を可能なかぎり実現しようとすることは,現代市場経済の中で農業協同組合が存続するために必然的なことであろう。農業協同組合が経済合理的に運営されることは,まさに必要条件である。たとえば農業協同組合経営が赤字になってしまえば,とうてい組合員の要望に応えることはできない。深川農業協同組合は健全経営で,組合員には利益還元を毎年行なってきた。しかしながら,逆説的ではあるが,農業協同組合の経済合理性の追求はコンピューターで計算された一種の管理会社への可能性をも強く指向する。組合員が所得増大による豊かな生活という考えを自分のうちに内面化していればいるほど,この可能性は強まる。経済合理性の裏面に潜む貨幣物神に無意識のうちに支配されるからである。開拓当初の厳しい自然条件への怖れと酷薄な社会環境との記憶が,貨幣物神に対象化されている。
 かつて宗教信仰がもったと同じような強烈な力を,貨幣物神は発揮する可能性をもつ。組合員自身は自主的行動と意識しても,客観点には組合管理の農業生産であり,管理社会を維持する活動として機能する。管理社会を維持するかぎり,経済所得は実現されるから,組合員にとつそ原則的には不満はないはずである。組合員の他産業への兼業が少なければ少ないほど,組合員は農業協同組合に丸抱えという転倒した状況も起りうる。組合員のための農業協同組合から,農業協同組合のための組合員という転倒である。農業協同組合と組合員が市場経済に適応しようと意識的に努めれば努めるほど,この転倒は無意識のうちに結果として実現してしまうのである。
 経営状態の悪い組合員は農業協同組合の指導で経営の健全化が図られる。もし健全化が成功しなければ,農業協同組合は離農勧告を行なう。これまで何人もの組合員に離農勧告を行なってきた。創立時(昭和23年)500戸の組合農家があったが,現在(昭和56年)343戸に減少している。いうまでもないが離農農家のすべてが勧告を受けたためではない98)。離農農家の大部分は札幌,一部は深川市街に移住した。
農村に残った人は殆んどない。市場経済の中で生きるためには,組合員の相互扶助より経済合理性を優先せざるをえないのである。相互扶助の理念と経済合理性の現実という二重拘束性のもとに農業協同組合はゆれ動く99)。
 農業協同組合は政府の政策実施の末端機構として機能することでも,市場経済の場合と同じく,組合員を管理する機構となる。組合の経済活動は政府の各種補助金,食糧管理制度のもとで行なわれ,政府資金を不可欠とする。しかし農業協同組合が政策実施機構として機能すればするほど,組合は政府の農家管理機構の末端組織として機能することに結果する。農業協同組合と組合員を媒介する農事実行組合は,自主性の強い組織としては機能しないから,農業協同組合の組合員に対する影響力は圧倒的である。他方,農業協同組合の政府に対する影響力は弱い。この結果,農民の自主的な活動による民主的農民組織という理念は空洞化し,政府の農家に対する間接管理機構が農業協同組合の内容となる100)。市場経済の場合と同じく,農業協同組合は二重拘束性に規定される。
 農業協同組合の二重拘束性を,市場経済と政府との関連でみた。いうまでもなくこれら2つの場合は相互に密接に絡みあっている。政府の農業近代化政策が市場経済のなかで自立可能な合理的農業生産を目指すかぎり,おおまかにみれば,組合の二重拘束性の2つの場合は重なりあう。すなわち変動する現代日本社会に動態的に対応せぎるをえない。このような二重拘束性は,いうまでもなく深川農業協同組合に限らない。どこの農業協同組合にもみられる。むしろ農業協同組合に限らず,企業,学校にも広くみられることである。しかし深川農業協同組合の場合は,明治以降の新開地に成立した農村社会という歴史があるために,この二重拘束性が他と比較して鮮明であり,現代社会の特徴が鮮かに示されているといえよう。
 二重拘束性のもとで,農業協同組合は経済合理性を追求せねばならない。しかし市場経済に対応するためにこの努力は,組合員相互の連帯を必ずしも強めることにはならない。弱めることになりやすい。他方,組合員の自主的組織を強調して経済合理性を軽視すれば,農業協同組合は破産するに違いない。この矛盾に対して,組合は組合強化策を実施せざるをえない。すなわち組合の経済活動を経済合理性のもとで運営しながら,他方ではまったく非経済的な消費だけを目指した行事を設定する。かるたとり,運動会相撲,盆踊りなど多くの趣向をこらした行事がある101)。幾つかの行事を行事暦によって簡単にみておこう。まず1月8日,小倉百人一首子供大会が農業協同組合3階のホールである。子供が興奮する遊びであるが,大人達もまたひきずられて楽しむ。1月18日,婦人部新年会である。歌と踊りが披露され,会場は笑いと拍手につつまれる。7月12日,体育祭。8月13日,盆踊り大会。営農センターの広場で行なわれる。8月19日,農協祭。牛1頭が解体されてステーキに供される。10月31日,農業まつり。
 行事暦に入っていない活動もある。旅行である。農業協同組合が主催して郷土訪問する。父祖の出身地を訪れる。57年は富山・石川を旅行した。戦前,お金を積立て伊勢参りなどしたことに類似する。これら非経済活動によって組合員相互は直接的人格的に関わる。すなわち組合員相互の連帯が再生する機会となる。これら行事の中でもっとも興味深い体育祭(運動会)の模様をうかがっておきたい。
 第1回運動会は昭和21年8月に開かれた。戦後まもなくである。深川全地区を5地区に分け,それぞれ桃色組,黄色組,赤色組,緑色組,紫色組とした。各競技ごとに得点を重ね,総計で優勝を決めることにした。戦後の自由な雰囲気のもとで競技が行なわれた。必勝と書いたむしろ旗を押し立て,どぶろく桶を天秤にし,太鼓を鳴らして行進しながら運動場に入場した。競技中も役員,見物人は酒を飲み気分が高揚しているため,けんかも派手に争われ,鮮血が飛び散るほどであった。太鼓も破られた。非常に楽しい一日で,運動会終了後の慰労会はどぶろくで深夜まで続いた102)。その後,運動会は断続的に開かれているが,昭和52年から組合活動強化運動の一つとして毎年行なわれている103)。
 運動会の模様は『農協ふかがわ』誌上に写真で再現され,再び人々の笑いを誘う。写真説明をここに紹介してみよう。「ガンバレとうちゃん」,「地面から身体が浮いた。私って軽いのね。」,「アッ,ボールが逃げた」,「カアチャン,ゴメン」,「組合長ハンチング似合うよ」まだ沢山ある104)。57年も7月11日に行なわれ,趣向をこらした各種競技が争われた。たとえば,「ちょっといっぷく」は,第1走者が火のついたタバコを口々にくわえて走り,第2走者以下は先行者のタバコの火を自分のタバコにつけてゴールを目指す。「茶のみともだち」は男女が別々にスタートして,10メートル地点の番号札で相手を決めて,手をつないで進む。20メートルでジュースを飲みほし,手をつないでゴールに向う。古くからある100メートル,60メートル競争も人気がある。まさに運動会は世俗化した祭である。運動会では,組合員相互を結びつける力が祝われる。組合長の挨拶は神主の祝詞に対応するであろう。日常,経済合理性のもとで形骸化しがちな組合員相互の連帯は活気づけられる。日頃謹厳な組合長がハンチングをかぶることで祭りとしての運動会の浮かれた気分が盛り上る。
 農業協同組合が二重拘束性のもとにありながら,常に新しい活動力を発揮するた
めには,運動会など非経済的活動が不可欠であることをみた。これら非経済的活動は,組合が初めて考案した活動ではなく,戦前も農村社会で行なわれていた行事である。地区社会の新年かるたとり,祭り,運動会,お講などが形を変えて,現在の組合活動に取入れられた。組合の青年部も農村社会の青年団に対応する。いうまでもないが,農村社会の組織と行事がそのままそっくり移植されたというのではけっしてない。現代に対応しながら形態を変え,組合の中に再生しているとみるのである。すなわち組合は経済合理性を追求する機能集団を目指しながら,同時にかつての地区社会に類似の社会関係をも非日常的に実現する。
 このような社会関係を実限する場がなければ,組合は機能集団として効率的に機能しなくなってしまう。あるいは農業協同組合のための組合員という転倒した状況が固定化してしまう。コンピューターで操作される組合員である。日常的な顕在的活動のレベルでは経済合理性を追求する社会関係が卓越し,政府の政策実施の末端機構として組合は現象する。しかし非日常的な,あるいは潜在的レベルにおいては消費を享楽し,組合員相互が人格的に直接的に関わりあう関係が隠れる。顕在的な経済的合理性を追求する社会関係も潜在的レベルでの人格的な関係なしに活動力を失ってしまうのである。
 農業協同組合の経済活動に力を与える潜在的レベルの人格関係が戦前の地区社会での農民の平等的相互依存に類似することをみた。自作農中心の産業組合は地区社会を包括することは難しかった。地域社会を包括する農業協同組合が機能集団として経済合理性を追求すればするほど,農業協同組合は逆説的に自からのアイデンティティを戦前の地区社会での人々の平等な直接的人格的な社会関係の記憶,言い換えれば神話化される過去,に求めざるをえなくなる。組合創立30周年を記念して,組合長は農魂不滅,協同一致と色紙に記した105)。すなわち農業協同組合は,人と人の間を貨弊が媒介する現代社会の中で戦前の地区社会を自らのうちに再生しようとする。地区社会と産業組合がもった諸機能をあわせ取込むことで,農業協同組合は現代における一つの組織体として機能することを,おのずから目指しつつあるかのようにみえる。
 注
 1)友杉孝『土地の商品化と貨幣の記号化』国際連合大学,1982年。
 2)筆者の現地調査の成果に基礎をおくが,既存の文献にも多くを依拠する。使用する文献をすべて注で明記するが,本稿の紙数の都合上,全文を引用すべき個所も要約して記述し参照とする場合も多くある。予めお断りしておきたい。
 3)友杉孝「タイ農業信用協同組合と村落社会」滝川勉・斎藤仁編『アジアの農業協同組合』アジア経済研究所,1973年。
 4)道路網に関する記述はつぎの文献による。深川市役所『深川市史』昭和52年,874~75ページ。以下,この文献を『深川市史』と略記する。
 5)大鳳川はオオホ・ナイで深い川の意味である。深川北部の多度志山地からの諸流を集めて西流し,雨龍川に注ぐ。大鳳川は深川平野で第1の河川である。「深川」の地名由来である。『深川市史』373ページ。
 6)尾角松―『足音は続く』札幌松吟会,昭和49年,24-25ページ。
 7)深川市農業協同組合『組合史』昭和53年,318ページ。以下,この文献を『組合史』と略記する。なお深川市一已の一已(イチャン)は鮭が卵を産むに適した土地という意味である。『深川市史』373-74ページ。
 8)『深川市史』642ページ。
 9)同上書875ページ。通りにはすべて意味が与えられていた。たとえば蓬?は低地で水草が繁る湿地であった。春にはよもぎ,あかざが繁った。蓬?山の縁起にあやかる意味もこめられた。本通りは市街地の中心地である。仲通りは本通りと蓬?通りの中間である。
 10)石狩川の舟運については,『深川市史』829-35ページ。
 11)同上書868-74ページ。
 12)同上書893-94ページ。
 13)同上書928-29ページ。
 14)同上書959ページ。
 15)同上。
 16)『深川市史』960ページ。
 17)同上書961ページ。
 18)メムは水が湧き出る沼に魚が多く入る土地の意味である。芽生とも書く。もとは深川全域を指したが,現在は深川市街の西に接する農村集落を指示する。
 19)『深川市史』966ページ。
 20)『組合史』46-49ページ。
 21)同上書52-53ページ。
 22)同上書53-55ページ。
 23)『深川市史』970-71ページ。
 24)同上書974-75ページ。
 25)尾角松一『足音は続く』3ページ。
 26)『組合史』49-50ページ。
 27)同上書50-51ページ。
 28)巴地区『巴開拓人十周年記念誌』昭和51年,38ページ。以下,この文献を『巴開拓誌』と略記する。
 29)同上書38-39ページ。
 30)同上書39-40ページ。
 31)同上書40ページ。
 32)北海道におけるお講を,出身地の文化の継承と変容という視点から研究した文献として下記のものがある。
 鷹田和喜三「団体入植村落における講組織の形成と母村の文化的背景(その1)(その2)」『拓植大学論集』134号(56年10月),137号(57年3月)所収。
 鷹田和喜三・小野寺正己「北海道の小作制農場下における村落構造の変容に関する社会経済史的研
 究」拓殖大学『研究年報』1号,昭和57年,所収。
 33)『深川市史』637-54ページ。 
 34)『巴開拓誌』41-42ページ。
 35)同上書45-46ページ。
 36)同上書44ページ。
 37)同上書45ページ。
 38)同上書17ページ。および筆者の聞取り。
 39)尾角松一『足音は続く』135-44ページ。
 40)大農場システムの確立を目指した華族農場について,つぎの文献を参照した。旗手勲『日本における大農場の生成と展開』お茶の水書房,1963年。
 41)『深川市史』970-71ページ。
 42)同上書975-78ページ。『組合史』57-58ページ。
 43)『深川市史』971ページ。
 44)同上書966-69ページ。
 45)『巴開拓誌』18ページ。
 46)同上書。
 47)同上書28ページ。
 48)同上書18ページ。
 49)同上書18-19ページ。
 50)同上書18ページ。
 51)同上書28-29ページ。
 52)同上書30-31ぺージ。
 53)『組合史』183ページ。
 54)『巴開拓誌』30ページ。
 55)『深川市史』1119ページ。『組合史』183ページ。組合史ではメムの耕地面積を1,800町としているため,不在地主所有地の比率は約80%にもなる。
 56)『組合史』181-83ページ。
 57)同上書。
 58)『組合史』186ページ。
 59)深川土地改良区『大正用水』昭和37年,26ページ。以下,この文献を『大正用水』と略記する。
 60)『組合史』85ページ。
 61)『大正用水』27-28ページ。『巴開拓誌』16ページ。
 62)『深川市史』1067-68ページ。
 63)『大正用水』29ページ。『組合史』86ページ。『深川市史』1068ページ。
 64)『大正用水』29-30ページ。『深川市史』1068-70ページ。『組合史』86-88ページ。
 65)『大正用水』60-64ページ。『深川市史』1070ページ。『組合史』91-92ページ。
 66)『大正用水』66ページ。『深川市史』1071ページ。
 67)『深川市史』1070-71ページ。
 68)『組合史』124ページ。
 69)同上書125-27ページ。
 70)同上書131-32ページ。
 71)同上書132-33ページ。
 72)同上書138-39ページ。
 73)同上書139ページ。
 74)同上書151-52ページ。
 75)同上書159-60ページ。
 76)同上書165-71ページ。
 77)同上書201-03ページ。
 78)同上書188-90ページ。
 79)同上書231-32ページ。
 80)深川町農民運動についてはつぎの文献が詳しい。深川町農政協議会『農民運動の足跡』昭和57年。
 81)『組合史』388-95ページ
 82)同上書398-404ページ。
 83)同上書302-07ページ。
 84)同上書338-40ページ。
 85)同上書341ページ。
 深川を事例にして,相当補償と集団転作を集落を単位にして検討した論文としてつぎの報告がある。矢崎俊治・石村桜「水田利用再編と北海道稲作の構造変動」拓殖大学『研究年報』1号,昭和57年。
 86)『組合史』342-43ページ
 87)同上書353-54ページ。
 88)同上書355-56ページ。
 89)同上書356-59ページ。
 90)同上書373-74ページ。
 91)深川市農業協同組合『昭和56年度事業報告書・昭和57年度事業計画書』昭和57年,18ページ。以下,この文献を『事業報告書』と略記する。
 92)『組合史』359-61ページ。
 93)同上書400ページ。
 94)『事業報告書』16ページ。
 95)『組合史』380-82ページ。
 96)同上書287-88ページ。『事業報告書』14-15ページ。
 97)『組合史』368-71ページ。
 98)『事業報告書』8ページ。
 99)二重拘束性は精神医学の用語である。母親の子供に対する建前と本音の使いわけが,子供を出口なしの状況においこみ,精神分裂症の原因となる。二重拘束性という用語を使って,すでに栗原彬は管理社会の社会意識内面化メカニズムについて考察している。栗原彬「日本型管理社会の社会意識」『管理社会と民衆理性』新曜社,昭和57年。
 100)大衆社会における中間集団についてコーンハウザーは示唆に富む。W.コーンハウザー『大衆社会の政治』辻村明訳,東京創元新社,昭和42年。
 101)『事業報告書』9-11ページ。
 102)『組合史』265-66ページ。
 103)同上書266ページ。
 104)深川市農協青年部『農協ふかがわ』79号,昭和56年8月。
 105)同上書,組合長の「序」に写真が掲げられている。