交通・運輸

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日本の工業化と輸送

著者名: 山本弘文
シリーズ名: 国連大学人間と社会の開発プログラム研究報告
出版年: 1979年
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 目 次

はじめに・・・・・・・・・・2
1. 輸送問題に対する維新政府の政策・・・・・・・・・・4
2. 工業化の進行と道路輸送・・・・・・・・・・12
3. 都市交通の発展・・・・・・・・・・22
4. 鉄道の発展と長距離輸送の衰退・・・・・・・・・・29



はじめに

 わが国は,1639年から200年以上にわたった鎖国時代ののち,1850年代に西欧諸国と和親条約Treaty of Peace any Amityおよび通商条約Treaty of Amity and Commeroeを結び,世界に門戸を開放した。当時西欧諸国は,すでに産業革命を完了し,自由主義段階の最盛期にあったが,わが国はまだ封建時代の末期にとどまっていた。開港当時のわが国の経済発展がどの程度の水準にあったかについては,従来学者間に意見の相違があるが,概していえば,家族的な家内工業から,若干の賃労働を伴うマニュファクトリーmanufactory手工的工場への移行期にあったと考えてさしつかえないであろう。綿工業と絹工業はかなり発達していたが,いずれも手紡hand spinning,手繰hand reelingや手織hand weavingの域を出なかった。もっとも,大衆衣料品を生産する綿工業では,数名ないし十数名の賃労働者を雇傭するマニュファクトリーが,すでに開港前に,各地に出現していたのであったが,もちろん機械類はまったく存在しなかった。
 輸送分野の発展はさらに立ちおくれていた。外国への渡航を不可能にするため,17世紀初頭以来大型船舶の建造が禁止されていた。そのため洋航oceangoingに耐える規模と構造を具えた船舶は,ほとんど存在しなかった。他方陸上では,首都(江戸)を中心とした放射線状の街道highwayと,貨客の逓送relayのための宿場post townや宿馬post horseがかなりよく整備されていた。しかしそれらは本来封建的な軍事・行政施設の一部として整備されたものであり,庶民の利用は制限された。また首都を防衛し,商品経済を一定の枠内にとどめるため,各地に関所barrierが設けられ,街道上の車輌の運行と大河の架橋は禁止された。要するに開港時の陸上輸送は,宿馬と人夫carrierによる駅伝の域を出なかったのである。もちろん馬車horse-drawncarriageも馬車鉄道horse tramwayも蒸気鉄道steam railwayも,まったく存在しなかった。
 このような事実は,開港時のわが国と西欧諸国との経済的隔差が,きわめて大きかったことを示している。そのうえ1858年に調印された通商条約は,治外法権と片務的な最恵国条款および協定税率制を含む不平等条約であった。日本の裁判権は,民事上,刑事上を問わず,在留外国人には及ばなかった。またある一国に対するよりよい待遇は,なんらの協議なく,直ちに他の条約締結国に及ぼされた。貿易は強者に有利な自由貿易を原則とし,政府の干渉はきびしく排除された。そして関税率の決定は相手国との協定に委ねられ,自主的な変更はできなかった。輸入関税は1866年の改訂によって,すべて価格の5%を規準とする低税率となった。
 このような条約は,後進的なわが国の経済にとって,きわめて危険な要素を含んでいた。いうまでもなく圧倒的な競争力を具えた外国商品に対して,防禦の手段を奪われた通商条約は,わが国の国内市場を,外国商品の氾濫に任せる危険性をはらんでいたからである。もちろん旧時代の砲艦政策gunboat policyはすでに背景に退いていた。しかし新しい自由貿易も,後進国の経済に対する破壊力の点で,きわめて危険なものであった。
 それにもかかわらず,開港後の推移は,わが国の土着産業が,外国商品に対して,かなりの抵抗力をもっていたことを立証した。もっとも,一部の産業,とりわけ一国の工業化にとってきわめて重要な地位を占める綿工業は,安くて良質な綿織物や綿糸cotton yarnの流入によって,大きな打撃を受けた。なかでも外国製品によって直接代替される製品―白木綿と原料綿糸―がそうであった。しかし庶民の日常衣料として広く用いられた柄物[がらもの]patterned cotton fabricはほとんど影響を受けなかった。というのは,当時わが国の日常衣類(和服)は,前もって染められた糸を用いた柄物綿織物であって,西欧諸国で大量に生産されたプリント地printed cotton clothとは質的に異なっていたからであった。前者はいうまでもなく労働集約的な織物であり,後者は機械制生産に適合した労働節約的な織物であった。しかし後者は日本市場において,直接的な代替性を持ち得なかった。いうまでもなく服装様式は,住民にとってつよい社会的強制力として現われる。したがって安くて良質な外国産綿プリントは,わが国の服装様式の変革を通ずることなしには,その市場を開拓できなかったのである。このことはその後のわが国の工業化を容易にした幸運な,しかし重要な要因であった。
 他方輸出貿易の分野においても,1860年代の西欧経隣の繁栄を背景にして,生糸と茶の輸出が活況を呈した。生糸価格は開港前の3倍に騰貴し,養蚕・製糸地帯に空前のブームを呼びおこした。そして従来家族的な家内工業ないし問屋制家内工業putting out systemにとどまっていた製糸業silk reeling industryにおいても,賃労働者を雇傭するマニュファクトリーが各地にあらわれるようになった。もっとも生糸を原料とした絹織物製造業は,原料不足と価格騰貴によって,一時深刻な打撃を受けることになったのであるが。このような開港は,わが国の産業に明暗を異にする複雑な影響を及ぼした。しかし概していえば,それまで狭い国内市場に閉じ込められ,競争を通じて手工的熟練を蓄積してきた国内産業は,開港によってつよい刺激を受け,不平等条約の不利な条件を克服しうる活動力を発揮し始めたのであった。しかし輸送分野では,沿岸航路への外国船の進出が活溌化し,宿場やこれを補助する近隣農村の疲弊がすすむなど,否定的な現象が目立った。また外国資本による鉄道敷設権獲得の圧力も,しだいに強くなった。しかし内陸部では,封建的通行規制の弱い脇道bywayを経由して,輸出入貨物を馬背でon horseback運ぶ道路輸送が,しだいに活溌化し始めていた。要するに輸送分野においても,開港後,こうした否定的要素と肯定的要素の混在した流れが,にわかに流速を増して流れはじめたのであった。前者はいうまでもなく植民地化の危険性をはらんだ流れであり,後者は自立的国民経済への可能性を秘めた流れであった。そしてこのような入りまじった流れは,明治維新Meiji Restorationとその後の改革を通じて,経済的自立への基調をしだいに鮮明化してゆくことになったのである。

1. 輸送問題に対する維新政府の政策

 開港後の政争を通じて1868年1月3日に発足した維新政府Restoration Governmentは,この政争期に将軍制Shogunateの改革ないし打倒のために活躍した領主たちfeudal landlordsと,宮廷imperial courtとの連合政権のかたちをとっていた。元首となったのは天皇であったが,閣僚は有力な領主たちであった。そして旧来の領主たちの所領feudal domainは,維新政府に抵抗した一部の領主を除いて,従来の領主たちによって領有された。
 維新政府が支配し,徴税できたのは,旧将軍領(天領)にすぎなかった。しかしこのような分権的な状態は,維新政府成立後の内戦(戊辰戦争)によって,領主階級の窮乏化がすすむなかで,急速に崩壊した。そして1871年7月には,領主階級の所領はすべて新政府に接収され,彼らは貴族にランクされた。こうして新時代の課題にふさわしい,集権体制が成立することになったのである。
 工業化のための維新政府の政策は,先進国に併立し得る,富国強兵の達成を目指して進められた。そしてそのために,鉄道,鉱山,沿岸海運のような重要産業から外国の利権を排除し,国家的独立と政権の確立に不可欠な産業を,政府直営にすることに重点が置かれた。このような政策は,外国資本の流入を防止するうえで重要な役割を果したが,他方では広汎な直営事業によって財政資金を浪費し,民間産業の発展を阻止するというデメリットもともなった。そのため民間産業の発展が目立ちはじめた1880年代には,従来の直営方針を大幅に緩和し,鉄道,通信,造兵などの戦略産業を除いて,従来の政府直営企業を相次いで民間に払下げることになったのである。
 またこの政府は,封建的な将軍制との政争を通じて成立したため,当初から一定の革新性と開明性を具えていたが,他方では過渡的な連合時代ののち,集権的な帝制として発足したため,専制的な側面を併有していた。そのため当初はしばしば国民の反抗をまねき,政策自体にも試行錯誤が含まれていた。しかし旧武士階級を主体とした官僚群は,総じて勤勉で有能であり,状況に対する対応も硬直的でなく,弾力的であった。その結果彼らは,状況への対応のなかで,旧い殼をつぎつぎと脱ぎ捨て,工業化に適応し得る資質をしだいに身につけることになったのであった。
 交通・運輸に対する新政府の施策は,当然のことながら,道路,鉄道,内陸水運,海運の全分野にわたった。
 まず道路輸送の分野では,旧来の封建的な駅伝制度に対する政策決定が,新政府に与えられた最初の課題となった。この制度は本来幕府,領主による街道,宿駅の管理と,宿役人による輸送業務の運営を柱とした,封建的な輸送制度であった。将軍居住地の江戸からは,5本の街道が放射線状に延び,それぞれの街道には10キロメートル前後の間隔で宿場が設けられた。宿場には武士階級の休泊と通行のために,宿舎と人馬が常備され,幕府から任命された宿役人によって,休泊や輸送業務の運営が行われた。常備された人馬の数は,江戸と京都(天皇居住地)を結ぶ東海道(もっとも重要な街道)の場合100人と100匹,これに次いで重要なもうひとつの街道(中山道)が50人・50匹,残りの3街道は25人・25匹であった。その他の街道は5街道より重要性が低く,交通量もより少なかったが,それらにもそれぞれ地方の領主によって宿場が設けられ,交通量に応じて人馬が常備された。貨客の輸送はすべて隣宿までの駅伝であった。
 これらの施設を優先的に利用できたのは,いうまでもなく武士階級であった。
彼らは時価よりはるかに安い値段で,これらの施設,人馬を利用することができた。しかし使用量には身分に応じて一定の制限があった。そしてこのような負担の代償として,宿場は地税の一部を免除され,一定額の助成金を下付されたほか,庶民の休泊と輸送に従事することを免許されたのであった。しかし庶民の休泊と人馬の利用は,公用通行に支障のない場合に限られ,料金や運賃ももちろん時価であった。
 他方公用の輸送需要が多く,宿場の人馬でまかなうことができない場合には,近隣の農村の人馬が動員された。それらの村々は,あらかじめ各宿に配属され,宿役人の指示によって必要な人馬を提供させられたのであった。これらの村々はその代償として,雑税を免除された。しかし輸送労働の負担は,免除された雑税額をはるかに上回ったので,19世紀には,村々の疲弊が一段とひどくなった。
 維新政府が幕府から引きついだ輸送制度は宿と近隣農民の賦役corveeに依存したこのような封建的な制度であった。しかし維新政府がその廃止に踏切るまでには,かなりの時間が必要であった。というのはわが国の為政者には,それまで軍事,行政上の公用輸送を民間の業者に委ねた経験がほとんどなかったし,また上述の輸送施設は新政府にとっても,政権の基礎を固めるうえで不可欠な施設と思われたからであった。事実,新政府が成立直後,幕府との間で開始した内戦は,この制度が本来持ちあわせた軍事的機能をあらためて再認識させた。宿役人による人馬の動員と指揮は,機動性を必要とする大量の軍事輸送に,きわめて適合的であった。したがって政府は,内戦の開始とともに真先に街道と宿駅の掌握に着手し,既存の制度を最大限に利用して,軍事輸送をすすめたのであった。
第1図 五街道一覧(大西延次郎による)
 しかしこのような制度の利用は,内戦期にとどまらなかった。事実政府は,すでに勝利の見通しが明らかになった1868年6月,旧来の輸送制度を補強するための大規模な改革に着手し,従来宿駅近隣の村々に課してきた輸送労働を,全農村に拡大した。もっとも当時の布告は,その理由を負担の公平に求めたが,引続き高水準にあった公用輸送需要のもとで,それが負担の公平な増加に帰着することは,疑う余地がなかった。事実軍事・行政上の通行は相変らず盛んであったし,人馬の利用制限も従来とほとんど変らなかった。また従来の安い公用運賃もそのまま据え置かれたのであった。このような事情は,あらたに労役を課せられた村々に,布告に対するつよい抵抗を呼び起した。様々な理由を設けて労役の免除を願いでる村々が相次ぎ,人馬の徴達はしだいに困難になった。公用定賃銭は,内戦期の物価騰貴のため,すでに時価の半額にも及ばなかったし,不時の輸送労務は,日常の農作業に対して,きわめて攪乱的な作用を及ぼしたからであった。もちろん,抵抗に直面した政府は,繰りかえし布告を発して怠慢を叱責し,あるいは宥和につとめた。しかし結局時価の半額以下の低賃銀で,大量の輸送労働を農村から調達することは不可能であった。そして労働の正当な対価を求める農民の力に押され,人馬使用量の大幅な制限や公用定賃銭の値上げなど,相次いで譲歩を余儀なくされることになったのである。
 このような譲歩は政府の財政負担を増加し,ますます不能率になりつつあった輸送制度を維持する根拠を,急速に掘り崩した。また1870年4月に始まった鉄道の建設も,政府と宿役人が道路輸送業務を管理・運営し続ける必要性を弱めた。その結果東京―横浜間に最初の鉄道が開通した1872年には,民間による道路輸送業務の請負が各宿ごとに認可され,ついで1875年には,業務の民間への開放―自由な出願と同一規準による免許―が実限することになったのである。
 ところで道路輸送に対する政府の政策が,農村の抵抗によって難航していた頃,わが国の周辺はすでに,世界的な鉄道時代の波に洗われていた。周知のように鉄道は,産業革命末期のイギリスに初めて登場して以来,めざましい輸送力によって世界各地に急速に普及し,1870年頃にはすでにその総延長は,地球5周分に相当する約20万キロメートルに達していた。またその敷設地域も,ヨーロッパ・北米はもちろん,アジア・アフリカ・ラテンアメリカ・オーストラリア・ニュージーランドなどに及び,とくにインドでは,イギリスの活溌な投資活動によって,すでに5,000キロメートル前後に達していた。また合衆国でも1869年に,宿願の大陸横断鉄道が開通したのであった。17世紀から19世紀初頭にかけて,欧米における国民経済の形成に奉仕した道路時代はすでに終りを告げ,新しい鉄道時代の躍進が始まっていたのであった。
 このような鉄道時代の圧力は,1867年頃から,鉄道敷設権を求める諸外国人の運動となって,わが国へも及んだ。とくに維新政府の発足後,アメリカ公使館員A.L.C.Portmanが,江戸(東京)―横浜間の鉄道敷設免許を旧幕府の大臣から獲得し,新政府に権利の確認を求めたことが大きな衝撃となった。この問題はその後本人および合衆国公使館との間の外交上の紛争に発展した。しかし政府はイギリス公使H.S.Parkesの支持のもとで,Portmanの要求をつよく拒絶し,ロンドン市場での募債とイギリスからの技術導入によって,さしずめ東京―京都間に政府直営鉄道を政府の管理のもとで建設する方針を,急いで決定したのであった。1869年11月に決定されたこのような方針は,募債の完了と器材の購入,イギリス人技術者の雇傭をまって,1870年3月に東京―横浜間(約18マイル)で着手された。工事は海岸部の平坦な地形に助けられて順調に進み,1872年10月に竣工した。しかし軌道は3フィート6インチの狭軌単線で,橋梁も木橋であった。また建設はすべてイギリス人技術者の指導のもとで行われ,運転も1879年頃までイギリス人機関手によって行われた。なお外国人技術者の数は,ピーク時の1874年には113名にのぼった。
 以上のようにわが国の鉄道は,敷設権を求める外国資本の圧力のもとで,官設官営を基本方針として発足した。しかしこの方針の背後にはまた,新旧両首都を連結するという計画に見られるように,新政の基礎を確立するという国内的な要因も存在した。そしてこのような内外の問題に対処するという点で,産業鉄道というよりは政治的な鉄道であった。そして官設官営は,このような政治目的の遂行に,もっともふさわしい方式であった。
 しかしこのような方式は,反面また,国民経済の発展にとって,必ずしも好ましくない側面をもっていた。いうまでもなく政府資金にはおのずから限度があったし,また民営鉄道の禁止は,産業の自主的発展にとって明らかに阻害的だったからである。
第1表 工部省鉄道寮(局)関係傭外国人人数
事実その後の鉄道建設は,政府資金の欠乏によって,1880年代中葉まで,きわめて停滞的な足どりをたどった。また民間産業の成長にともなって,鉱山,工場,造船所など広範囲にわたった国営企業に対する批判も強くなった。いうまでもなく好調な国営企業は民業の発展を抑止し,不調なそれは財政資金の浪費に帰結したからであった。
 このような批判と政府部内の反省は,従来の直営方式を大きく転換させ,1880年代なかばから,政府企業の大規模な払下げを開始させることになった。そして鉄道においても,払下げこそ行われなかったにせよ,民営鉄道の認可が広く行われることになったのである。
 その結果鉄道建設と路線の延長は,1890年代なかばにかけて急速に進んだ。とりわけ民営鉄道の発展はめざましく,1894年には総延長3,400キロメートルのうち約2,500キロメートルが民営鉄道であった。そしてこの頃には日本列島を縦・横断する幹線鉄道もほぼ開通し,本格的な鉄道時代を迎えることになったのである。なおこの間1880年頃には建設・運転技術もほぼ自立し,外国人技術者の数も,1885年末には16人に減少した。また客貨車の製造も早くから始まったが,レイル,機関車などの完全な国産化が可能になったのは,1900年代に入ってからであった。
 他方海運の分野では,開港以来,沿岸や近海への外国船舶の進出が著しく,せいぜい50トン前後の日本船舶では,とうてい競争できない状態にあった。そのため政府は,1870年頃から国内船舶の体質改善に力を注ぎ,龍骨を欠いた平底,一枚帆の日本型帆船から西洋型帆船,蒸気船への転換を積極的に奨励した。
第2表 東京―横浜間鉄道輸送実績
また沿岸海運に従事する有力な業者を集めて半官半民の廻漕会社を組織し,政府所有船舶を使って沿岸海運の復興につとめた。しかしわずか数年で失敗に終ったため,1875年から有力民間業者の助成に転換し,新興の三菱会社に対して政府所有汽船13隻と10年間に253万円余の助成金(10年間の歳入総額の0.37%)を下付してその育成につとめたのであった。その結果同社は1875年から翌年にかけて,競争相手の太平洋郵便蒸気船会社Pacific Mail Steamship Co.(合衆国)やP.O.汽船会社Paninsular and Oriental Steamship Co.(イギリス)を相次いで沿岸や上海航路から駆逐し,外洋への扉を開くことになったのである。同社はその後1885年に,同じく政府の保護を受けた他の有力会社と合併し,資本金1,100万円の日本郵船会社が誕生することになった。そしてこの頃から急速に成長しはじめた紡績資本と提携して,1893年に初めてボンベイ航路に進出し,P.O.汽航会社その他との激しい競争ののち,1896年に定期航路の開設に成功した。これは日本の海運業にとって,遠洋航路への進出の第1ページとなっただけでなく,紡績資本にとっても,原綿の安定的な確保のうえで,記念すべきでき事であった。なおこの間わが国の保有船舶の体質改善も順調に進み,1890年代中頃には,蒸気船の優位が確立することになったのである。
 他方河川の水運も維新以後しだいに発展し,1870年代には一部の河川や湖沼で,蒸気船の就航も始まった。また運河の建設も各地で行われたが,当初から鉄道の競争にさらされたため,西欧の運河時代のような繁栄を経験することはできなかった。そのうえ1910年代には自動車輸送の圧迫も受けることになったため,湖沼や河口付近の連絡,集配輸送を除いて,急速に衰退することになったのである。

2. 工業化の進行と道路輸送

 すでにふれたようにわが国の道路輸送は,1875年頃,旧来の封建的な輸送制度から解放され,自由な出願と同一規準による免許をたてまえとした一般免許制へ移行した。もっとも全国的な輸送組織を具えた有力業者に対しては,輸送網を維持する必要上,引続き特別の保護が加えられたが,それも1880年代末にはほとんど消滅することになった。そして1875年頃から1890年代初頭にかけて,かなりの活況が道路輸送全体にあらわれることになったのである。
 このような道路輸送の活況は,車輌輸送の増加に端的にあらわれていた。すでにふれたように封建的な旧制度のもとでは,街道上の車輌の通行は原則として禁止されていた。しかし維新後は人力荷車man-pulled cartの使用が広く認められ,また1870年には,これを改造して乗用にした人力車jinriki-shaも公認された。
 他方馬車は,開港後すでに外国公館の自家用馬車が開港場周辺で運行していたが,1869年には,日本人経営の最初の乗合馬車が,東京―横浜間で認可された。しかしこれは首都と開港場を結ぶ例外的なものであり,各地で広く免許されるようになったのは,最初の鉄道が開通した1872年頃からであった。
第3表 明治初期馬車台数
そして市内の辻馬車cabや乗合馬車omnibusだけでなく,街道上にいくつかの馬継所stationを設けた駅馬車stage coachもあらわれたのであった。
 1872年に運行を開始した駅馬車は,東京―高崎間,東京―八王子間,東京―宇都宮間,境―福島間,大阪―京都間,函館―札幌間の6路線で,函館―札幌間を除けばいずれも民営であった。
第4表 諸 車 台 数
これらの路線は,東京,大阪,札幌という中心都市を終着駅とした点で,もともと一般貨客の多い路線であった。しかし他方,高崎,宇都宮,福島,八王子は輸出生糸の主産地であり,これを東京に運ぶことに,もうひとつのねらいがあった。(境―東京間は川舟で結ばれた)東京からはいうまでもなく鉄道で横浜港へ運ぶことができたのであった。いずれにしても民営の馬車輸送は,上述の官営鉄道と違って,有望な輸送需要とかたく結びついていたのであった。軽くて高い運賃負担能力をもち,かつ価格変動に敏感な生糸は,こうした新来の輸送手段にもっとも適合的な貨物だったということができるのである。なおこれらの駅馬車は,いずれも以上のような一般貨客のほか,官営郵便(1871年3月創設)の輸送を請負い,官営郵便馬車の称号と章旗に保護されて運行した。これは当時まだ封建的な輸送制度が各地に残存し,民間貨客の通行をしばしば妨害したからであった。郵便物の運送は,その意味で,固有の輸送手段を持たなかった政府だけでなく,業者にとっても好都合なものだったということができるのである。
 次に東京―高崎間の馬車輸送を例にとって,輸送組織や輸送状態を,やや詳しく紹介してみることにしよう。
 東京―高崎間の馬車輸送は,1872年6月,中山道郵便馬車会社によって開始された。同社は開業に先立って同年2月,1日に付37.5キログラムの郵便物を無料で輸送することを条件として,郵便馬車会社の称号と章旗を認可され,また約50アールの土地(東京市内)と無利息10ヵ年賦返済の資金を政府から貸与された。企業形態はつまびらかでないが,パートナーシップのかたちをとったものと思われる。会社組織については,東京に本社,熊谷・高崎に支社,蕨・桶川・本庄に出張所が設けられた。運行車輌は,毎日東京―高崎間に2頭牽2輌,東京―熊谷に1頭牽2輌が運行し,合計50頭の馬が両端および途中の支社・出張所に配置された。
第2図 中山道郵便馬車会社営業路線図
 発着時刻は東京・高崎とも朝6時発,夕6時着と定められ,運行回数は東京―高崎間,東京―熊谷間とも毎日1往復とされた。東京―高崎間の距離は,約110キロメートルであるから,10キロメートル弱の時速が予定されていた。運賃は上り勾配の東京→高崎が,150キログラム当り2.37円だったが,下り勾配の高崎→東京は2.13円で,同一区間でも勾配によって違っていた。このような運賃制度は封建時代のそれと同様であり,まだ近代的な運賃として確立していないことを示すものであった。またその水準は馬背輸送の約1.8倍に相当し,かなり割高であった。したがって輸出生糸のような高級貨物や旅客のほかは,たやすく利用することができなかった。
 しかし同社の馬車輸送は,開業後たちまち劣悪な道路問題に直面しなければならなかった。すでにふれたようにわが国の道路は,それまで車輌の通行をまったく経験したことがなかった。したがって路床も路面もきわめて軟弱で,凹凸も多かった。そのうえ河には橋がなく,徒渉不可能な河川では,舟に積載して車輌を対岸へ運ばなければならなかった。したがって同社の馬車も,定時の到着はきわめて稀で,2,3時間の延着は普通であった。とくに雨期の通行は困難をきわめ,車輌の破損や転覆も珍しくなかった。いずれにしてもこうした車輌輸送の登場は,道路の拡幅や改修,保全問題を,にわかにクローズアップすることになったのである。
 このような道路事情は,各地に奇妙なつぎはぎ輸送を出現させた。その好例はさきに挙げた境―福島間の馬車輸送であった。1872年10月,陸羽街道馬車会社から政府に提出された計画書によれば,この馬車輸送は第3図のように,馬背や船を使用する輸送区間をいくつも含んでいた。
(ただし馬車は至急便の場合。常便の場合は馬車のかわりに通馬をもちいることになる。)
第3図 陸羽街道馬車会社予定営業路線図
第5表 陸羽街道新旧輸送手段および賃銭表
第6表 陸羽街道結城通新旧輸送手段および賃銭表
 いうまでもなくこのようなつぎはぎ輸送は,貨物の頻繁な積替えのため,所用時間や経費,荷痛みなどの点で,通しの馬車輸送よりはるかに不利なものであった。しかし資料によればそれでもなお,馬背と船だけの場合(福島―境間の所要時間は145時間)にくらべて,約48時間の短縮が可能であった。もっとも運賃は,馬車を加えた場合305.5円となり,馬背と船だけの場合より56.5円高くなったが,生糸のような価格に敏感な貨物の場合には,48時間の短縮は,こうした割高な運賃を補って余りあったものと考えることができよう。同社の出願はこのような2種類の輸送方法を含むものであったが,いずれにしてもこのようなつぎはぎ輸送は,当時の劣悪な道路事情と,そのなかで極力輸送時間を短縮しようとした関係者の姿を,示すものということができるのである。
 このようなつぎはぎ輸送は,内国通運会社(現在の日本通運株式会社)によって,1874年8月から東海道で開始された,郵便物の馬車輸送にも見られた。同社は江戸時代初頭から,信書・貨幣・高級貨物の輸送請負業に従事してきた飛脚業者たちが,官営郵便の開設にともなってその下請業務に転業し,1872年6月の会社創立以来,政府の特別の保護を受けてきたものであった。1874年8月に始まった神奈川―小田原間の馬車輸送も,このような官営郵便物の早達を目的としたものであったが,その後この路線は,1875年11月に熱田まで,1876年8月には京都まで延長されることになったのである。1877年12月,同社に下付された郵政当局の命令書によれば,神奈川―京都間(495キロメートル)は14区間に分けられ,午後神奈川発の便は56時間で,夕刻の差立便は60時間で京都に到着する規則になっていた。しかし悪路のため,ここでも全区間の馬車輸送は不可能であった。
第4図 明治10年12月 東海道郵便物輸送路線
 たとえば小田原―箱根―三島間,島田―日坂[につさか],熱田―桑名―土山間は脚夫による逓送,宇都谷―島田間は人力車,浜松―新所[しんじよ]間は渡舟といった具合であり,馬車の走行が可能だったのは,残りの7区間に過ぎなかった。いいかえればそれは,郵便物の早達のために,利用可能なあらゆる輸送手段を動員した長距離輸送だったと考えることができるのである。残存する資料によれば,同社によるこのような東海道郵便物輸送は,1880年に入っても続けられたが,つぎはぎ輸送の状態はほとんど変らなかった。もっとも1883年2月の命令書によれば,熱田―桑名―土山間は脚夫から人力車へ,宇都谷―金谷(島田の西隣の駅)間は人力車から馬車へといった,多少の改善が認められたのであるが。
 他方1880年代には,各地の馬車輸送も一斉に始まった。馬車台数は1875年の364輌から1880年の1,792輌,1885年の10,526輌,1890年の31,965輌へと激増した。とくに荷馬車の増加はめざましく,1875年の45輌から1890年の29,088輌へと激増し,1882年には乗用馬車数(1,920輌)を追い越した(荷馬車は2,623輌)。また長距離用の2頭牽馬車もしだいに増加した。このような荷馬車や長距離用馬車の増加は,地方産業の勃興と遠隔地間の商品流通の発展を,反映したものということができよう。事実わが国の地方産業は,1870年代末から,地方制度の整備や海外貿易の発展にともなって,一斉に成長を始め,水車動力を用いたマニュファクトリーが各地に出現した。そして製糸業や綿糸紡績業の分野では,在来技術の改良もかなり進みはじめたのであった。1880年代の馬車輸送の発展は,このような事情を反映したものと考えることができるのである。
 ところでこのような車輌輸送の発展は,当然のことながら,既存の道路の改修や新道開拓の必要を各地に呼び起した。もともと江戸時代を通じて軍事・行政上の見地から整備された既存の道路網は,経路や地形などの点で地方産物の流通に適さない区間を含んでいたし,また軟弱な路面や狭い幅員では,車輌輸送にとうてい耐えることができなかったからであった。
 このような道路の建設・改修の動きは,政府の指導をまたず,地方の必要に基づいて自発的な請願のかたちで始まった。とりわけ開港以後輸出入貨物の通路になった横浜周辺では,はやくから津久井往還(甲州街道吉野駅―中野―荒川―久保沢―橋本―鶴間―芝生―横浜,いわゆる糸道),矢倉沢往還(御殿場―足柄峠―矢倉沢―神山―曽屋―厚木―芝生―横浜,いわゆる茶道)などの活況が見られ,これにともなって旧道の改修や新道開拓の動きが各地にあらわれた。たとえば御殿場周辺では,72年頃から足柄古道(矢倉沢往還)の改修が繰りかえし行われたし,また足柄峠の東側では,麓の関本を経由しないで直接神山(松田)へ抜ける間道がにわかに脚光を浴びることになった。このほか神奈川県西境地方でも,72年以降,茶,生糸などの輸出貨物の新しい通路をもとめて,山越えの新道開拓が各地でこころみられたのであった。
 他方このような道路の改修保全や新道の建設は,当初は大部分,地方住民の“自普請”にゆだねられてきたのであったが,73年頃からやや制度化の試みが見受けられるようになった。すなわち73年8月2日には「河港道路修築規則」(大蔵省番外達)が各府県に達せられ,1等から3等までの道路等級と大まかな負担区分(1,2等道路は国庫60%,府県40%,3等道はすべて地元負担)が定められたし,また76年6月には太政官布達第60号によって,あらたに国道,県道,里道の区分と,それぞれ1等から3等までの等級が定められた。もっともこのうち国道の等級は85年1月太政官布達第1号によって廃止され,新たに1号から44号までの国道番号が付されることになったのである。
 しかしこのような道路の改修整備のための経費の負担は,江戸時代以来の慣習によって,当初から地域負担がきわめて重かった。とくに70年代なかばからは,政府財政の窮迫(それは廃藩後も続いた士族に対する莫大な家禄支給や,各種の行政・勧業費,士族反乱の鎮圧費などによっておこったのであるが)のため,地域への加重がつよまり,また81年には,政府紙幣整理のための原資を捻出するため,政府から府県への工事下渡金が廃止されることになったので,その負担はさらに重くなった。事実政府決算額中の土木費は80年度の251万円余から14年度の37万円余へと激減したが,その最大の理由は「本期以降府県土木費中官費下渡金ヲ廃セシカ為メ」であった。このような地域負担の実体は,後述の東京府の場合に見られる通りであるが,いずれにしても国道の改修保全を含めたこのような地域負担は,国道利用者および破損者の非地域的性格と対立し,時には82年11月の福島事件のような,地域住民の激しい反抗を呼びおこしたのであった。
 しかしこうした改修や建設の動きにもかかわらず,当時の道路状態はきわめて劣悪であった。事実イギリス公使パークス(Sir Harry Smith Parkes)は,77年10月5日付で,次のような報告を本国政府に送っている。

 凡ソ日本諸国の大道路ハ,重モニ軍略上ノ便否如何ヲノミ顧ミテ経営セシモノニシテ,通商貿
 易ノ便益杯ハ殆ンド顧慮セラレザリシハ明了ナリ。尚ホ之レノミナラズ,日本人ハ輓近ニ至ル
 迄,夫ノマカダム法(小形ノ砕石ヲ道路ニ敷クヲ云フ)ノ工夫ヲ知ラザリシガ故ニ,軟質ノ物
 体ヲ以テ其道路ヲ築造スルモノトス。依之暴雨ノ後ハ,車輪殆ンド通行シ難キヲ常トス。尤モ
 否ラザルモノハ僅ニ2,3道ニ過ギズ。
 是レ迄現今ノ道路ヲ修繕シ,又新道ヲ開カントテ大ニ各地方ノ尽力セシアリト雖ドモ,目下日
 本国中二於テ可ナリノ道路ト称スベキモノハ,只僅ニ小田原ニ至ル迄ノ東海道筋ト其他1,2,
 3ヶ所ニ過ギズ。即チ奥州街道ハ宇津ノ宮迄,中仙道ハ高崎ニ至ル迄ノ道筋是レナリ」(大隈
 文書A2824,「1877年,日本内国運輸ノ性質並ニ費用ニ関スル英国領事報告」)。

 このように77年当時の道路は,大部分,車輌通行に耐えることができず,比較的良好だったのはわずかに東京―小田原,東京―高崎,東京―宇都宮の3区
間にすぎなかった。しかしこのベスト3についても,前述のように馬車の定時運行ができなかったし,また車輌の破損や転覆などの事故も珍しくなかったのであった。しかしわが国の場合には,鉄道の発展にともなう長距離道路輸送の急速な衰退のため,諸外国の場合のような,有料化による道路の改修や保全は,ついに日程にのぼることがなかったのである。

3. 都市交通の発展

 都市交通,とりわけ東京,横浜,大阪,神戸などの大都市の交通は,都市間や地方の道路交通以上に,激しい変化を経験した。変化の第1は,激しい人口流入と車輌交通の出現にともなう,雑踏と混雑であった。たとえば東京府の人口は,1880年の95万7,000人から,1890年には153万1,000人へと,わずか10年間に1.6倍近くに増加した。また辻馬車,乗合馬車などの外来の輸送手段もはやくから登場し,市街の雑踏をさらに激しくしたのであった。
 都市交通の様相を一変した馬車の通行は,開港後,横浜―江戸(東京)間を連絡した外国公館の自家用馬車に始まったが,1869年4月には,日本人による横浜―東京間の乗合馬車営業も出願され,認可された。もっとも都心部の日本橋までの路線のうち,銀座―日本橋間は,危険防止のため,銀座―築地外国人居留地へと変更を命ぜられたが,その他は出願どおり認可され,翌5月から運行を開始した。こうしてこの横浜―東京間乗合馬車は,わが国乗合馬車の嚆矢となったばかりでなく,市街部への乗入れの第1号となったのである。
 他方1870年3月には,市内在住の高山幸助ら3名が,在来の荷車を改造した乗用人力車の営業を東京府に出願し,認可を受けた。人力によって牽引されたこの乗用車は,簡便さと低速性のため,当時の道路事情に程よく適合し,1880年前後には約25,000輌が,東京府内で運行するといった激増ぶりを示した。また各種の荷車や駄馬の通行も増加したため,その交通事情はきわめて雑然とした様相を呈することになったのである。当時の錦絵はその模様を生き生きと画きだしている。
第7表 東京府内諸車台数
 このような市街の交通事情は,各種の車輌取締規則を相次いで制定させた。すなわち69年4月には,前記の横浜―東京間乗合馬車の認可に当って,東京府から8ヵ条の規則書が出願者に令達されたのをはじめ,翌70年3月22日には「人力車制条5則」が,また同28日には布告第144号によって「馬車取締規則」が,それぞれ関係者に布達された。その内容はいずれも危険防止と安全運転を眼目とするものであったが,その他適正運賃や貴族・高官・軍隊などに対する敬礼にも及んでいた。なかでも敬礼のため下車を求めた条項は,まだ近代的な交通規則として自立し得ていない事実を示すものであった。このような下車条項は,翌71年4月の「馬車運行規則書」や「人力車渡世規則」へもひきつがれたが,72年3月の「馬車規則」や同4月「人力車渡世之者心得規則」からは姿を消した。なお馬車の通行は,当初から左側通行と定められていたが,この72年3月および4月の規則では,人力車もふくめて左側通行が明示された。
 車輌交通の登場とともにあらわれたもうひとつの問題は,いうまでもなく道路の保全,改修問題であった。東京市内でこのような道路問題があらわれたのは1870年末頃からであった。たとえば同年〓10月には大蔵省から東京府に対して,車税賦課に関する照会が行われているが,その後の推移からいって,この照会は,道路費の財源捻出のための調査であった。しかしこの時期にはまだ東京府は,道路の改修やその財源について明確な方針を確立するにいたらず,営業用馬車に対して一定の税金(2頭牽1ヵ年25両,1頭牽はその半額)を賦課している旨を報告するにとどまった。しかし前述のような雑踏の進行のなかで,翌年春には都心部の主要道路め改修計画を定め,その財源をさしあたり各種車輌に対する車税に求めることになったのである。
 同年4月東京府の決定した改良計画は,もっとも交通量の多い市内幹線道路(東海道高輪口から芝口橋を経て尾張町2丁目まで,それより京橋,畳町,五郎兵衛町を経て鍛冶橋門まで,畳町から筋違門まで,日本橋から浅草までに車道を設け,その経費を車輌運送収入の3%にあたる車税によってまかなおうとするものであった。新道の規格は,中央3~4間を石敷の車道とし,左右を歩道とするものであったが,歩道の幅員や敷石舗装の仕様はつまびらかでない。しかし車道と歩道の区分を初めて採用したここは,わが国の道路史上において画期的な事といえよう。なお改修計画にはこのほか尾張町から築地外国人居留地まで,尾張町から山下門内まで,芝口1丁目河岸通りから幸橋門内まで,東京府庁前通りから外務省まで,鍛冶橋門・馬場先門から大手門までの道路が含まれていたが,このうち第2,第3,第4の区間には東京府定額金が充当され,国費負担は第1,第5のような特殊な区間に限られていた。このことは当時の負担区分が,江戸時代のそれをほとんどそのまま踏襲したことを物語るものであり,政府の負担は,これに固有な区間(たとえば鍛冶橋,馬場先門内など)に限られたものと考えることができる。もちろん諸外国においても封建時代の道路改修は,教区その他の地方負担であったが、長距離道路輸送とりわけ車輌輸送の進展にともなって,有料道路・車税などを中心とした受益者負担へと急速に移行することになった。しかしわが国の場合には,車税などの導入が早くから行われたにせよ,後述のような鉄道の発展によって,長距離車輌輸送が,短期間に消滅したため,地域住民に対する過大な賦課が,長期にわたって維持されることになったのである。いうまでもなく長距離車輌輸送の消滅は,有力な担税者の消滅を意味したばかりでなく,道路の受益者と破損原因者も地域住民であるという,伝統的な観念を固定化することになったからである。いずれにしても伝統的な地域負担主義は,このような事情によって,第2次大戦後のモータリゼーションの開始まで,わが国道路行政の基本方針としてながく存続したのであった。
 しかしこのようにして始った東京府内の道路改修は,車税収入や定額金の充当にもかかわらず,たちまち資金不足の壁にぶつかり,翌72年8月には,窮民救済基金として江戸時代以来積立てられてきた旧町会所の金穀・地所を,流用することを余儀なくされた。すなわち府廳のもとに新たに営繕会議所を設けて,三井・小野・島田らの富商をその頭取・掛役に任命し,上記の金穀(金618,196両2分3朱,洋銀3,383ドル10セント,銭633,652文,籾39,561石余,玄米572石余)と地所(1,705ヵ所),建物(土蔵15棟ほか)をこれに委託し,道路橋梁溝渠等の修築のために支出させることになったのである。これは維新後まだ日が浅く,新規の徴税が不可能であるとの判断に基づくものであったが,それにしてもこうした救済基金の流用は,地域負担の極限を意味するものといわなければならないであろう。しかもこのような基金をもってしても,長期にわたって上記の改修保全費をまかなうことはできなかった。事実東京府は79年2月,内務省に対して基金の涸渇を訴え,日本橋から四方に延びる国道(東海道,東山道,甲州街道,陸羽街道など)の改修費を,国庫負担に切換えることを出願したが,国費多端の故をもって,結局却下されることになった。またそればかりでなく政府は,81年7月,政府紙幣償却の原資を捻出するため,従来各府県に交付してきた土木費を打切ることにしたので,以後の地方負担はさらに加重されることになったのである。第8表は東京府統計書によって,1877年から89年までの東京府内の道路費の負担区分を示したものであるが,これによれば,同期間内の道路の建設・改修費のうち国庫が負担したのは,わずか3.3%にすぎなかった。しかも改修された道路は地方道だけでなく,かなりの面積の国道を含んでいた。事実第9表によれば,1880年前後5年間の建設改修面積のうち,14%は国道であったが,同期間内の道路費の国庫負担率は3.4%にすぎなかった。このことは国道改修費のかなりの部分が,地方費に転稼されていたことを,統計的に裏付けるものということができよう。
第8表 東京府内道路費の負担区分
また橋梁の新築・架替え・修繕等の経費も,道路費ほどではなかったにせよ,大幅に地方に転稼された。事実第10表によれば,同じく1877年から89年までの府内橋梁費のうち,国庫が負担したのは26.5%にすぎず,残りの75%近くが,府費,市町村費,寄付金等の地方負担であった。いずれにしてもわが国の場合には,道路橋梁等の社会資本の蓄積は,地方負担に負うところがきわめて大きかったといわなければならないのである。
第9表 東京府内の道路建設・改修と経費の負担区分
第10表 東京府内橋梁費の負担区分

4. 鉄道の発展と長距離輸送の衰退

 すでにふれたように,わが国の道路輸送は,1870年代なかばに実現をみた封建的な輸送制度の廃止と,70年代末からの工業化の進行にともなって,1880年代の初めからかなりの活況期に入った。道路上の車輌数は,都市内,都市間を問わず急速に増加し,東京―高崎間,東京―宇都宮,東京―八王子間などの中距離馬車輸送や,つぎはぎ的だったとはいえ,東京―大阪間,東京―福島間などの早達輸送も登場した。また都市や近郊でも人力車,乗合馬車などの通行が増加し,これにともなって新道の建設や改修も進みはじめたのであった。
 しかし1880年代にあらわれたこのような道路輸送の活況は,その後順調な発展を続けることができなかった。つよい官設・官営方針と政府資金の不足によって遅延していた両京連絡鉄道の工事が,中山鉄道公債資金の配付を受けて1884年から始まり,86年には路線を中山道から東海道に変更して89年7月に竣工(新橋―神戸間開通)した。また軍部のつよい要請によって87年秋に急遽着工された横須賀線も89年6月に竣工し,新橋―大船―横須賀間で一般運輸を開始した。一方紙幣整理その他のための財政緊縮と資金不足のため,従来の官設・官営方針も大幅に緩和され,日本鉄道会社,阪堺鉄道会社,伊予鉄道会社,両毛鉄道会社,水戸鉄道会社などに対して相ついで路線免許が付与された,その結果東日本に限っても,84年5月には上野―高崎間,87年12月高崎―仙台間,89年1月小山―水戸間,同年8月新宿―八王子間,同年11月小山―前橋間,91年9月仙台―青森間などが相ついで開通した。こうしていわゆる馬車時代の成熟をまたず,早くも本格的な鉄道時代が訪れることになったのである。
 このような事情は,沿線や近傍の道路輸送に大きな影響を及ぼした。たとえば甲州街道日野宿の多摩川渡船営業は,「甲武鉄道開通以降車馬旅客ノ通行俄然減少シ,収入従前ノ半ニ至ラス」(日野市天野家文書)という状態になったし,隣駅府中の場合も「甲武鉄道開通及ビ川越鉄道敷設セラレ,往時ノ国道ハ自然衰退ニ傾」(府中市史資料集)く結果になった。このような鉄道の影響は,
わが国最初の鉄道が通った東海道品川宿では,すでに1872年9月頃からあらわれていたのであったが,1880年代なかば以後の線路延長によって,一挙にその範囲を拡大したのであった。鉄道院編『本邦鉄道の社会及経済に及ぼしたる影響(1916年刊)』は,こうした鉄道の影響について多角的な分析を試みているが,それによれば,東海道線全通から1913年にいたる東海道旧宿駅の人口増加は,一部を除いてきわめて停滞的であった。
 しかし一方鉄道は,これと競合する中・長距離道路輸送を,急速に沿線から駆逐する一方,停車場と周辺地域の間に,鉄道貨客の集配を中心とした新しい輸送市場を相ついで生みだした。こうして駅馬車にかわって停車場周辺の乗合馬車があらわれ,街道の継立業者にかわって駅前の集配業者が相ついで開業した。いわゆる長距離鉄道輸送と補助的道路輸送という新しい輸送体系が,鉄道線路の延長にともなって急速に浮上することになったのである。このような状況のなかで,維新以来諸道の人馬継立状況の(長距離道路輸送)を管掌してきた行政部局(駅逓司→駅逓寮→駅逓局)は,1887年3月廃局となった。また72年の創立以来終始政府の手厚い援助を受けてきた内国通運会社も,93年5月,諸道の継立所を大幅に整理し,長距離道路輸送から鉄道貨物の集配取扱業務へと業務内容の全面的な転換に踏み切った。これらはいずれも,長距離道路輸送の終焉を物語る,象徴的なできごとであった。

 参考文献
 鉄道院編『本邦鉄道の社会及経済に及ぼしたる影響』1916年
 山本弘文『維新期の街道と輸送』1972年 法政大学出版局。
 武知京三『明治前期輸送史の基礎的研究』1978年 雄山閣。
 豊田武・児玉幸多編『交通史』1970年 山川出版社。
 古島敏雄・安藤良雄編『流通史Ⅲ』1975年 山川出版社。
 日通総合研究所編『日本輸送史』1971年 日本評論社。